蝦夷とは

平凡社の『日本残酷物語』にある話で、豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに、出陣した南九州の武将が、郷里の幼い娘とやりとりした手紙が残っているそうで、お土産として若い女の捕虜を連れて帰るから、楽しみにしていなさいだとか、子供の遊び相手になるので、子供が寂しがることもなくなるだろうとか、そんな話のことが書かれてあったのが、ずっと気になっている。
勝ったときの捕虜は、戦利品に当たるのだろうか。それとも和平協定となったときの人質のようなものか、あるいは戦争でなくても友好のしるしに奴婢などを交換するような文化交流ないし儀礼なのだろうか。

『蝦夷』(高橋崇著、中公新書)によると、大和政権側の記録では、東北地方の蝦夷を「征討」したときに、かなりの人数を関東以西の地域に集団移動させたという。そういう蝦夷のことを俘囚とか夷俘とか呼んだ。郡郷制で俘囚郷という郷のある郡も少なくない。そういう地域には税の免除や経済助成などの待遇の記録があるという。俘囚という漢字表記ではあるが、普通の文化交流という可能性もある。
渡来人の子孫たちを集団移動させたというのは、蝦夷の集団移動とどう違うのかという問題もある。

万葉時代には東国から防人が徴集されたが、防人の歌をみれば、強制連行といったものでないことはわかる。
西方の防衛を東国が担当したというのは、連合国家を形成する小国がそれを分担したということではなかろうか。
連合国家というのは、邪馬台国がそうであったような、邪馬台国のような連合かその名残りを色濃く残した連合ということになる。それ自体は東国の一方的な服従というわけでもあるまい。服従した者たちに軍事を任せても安心だったのだろうから。
軍事を担当する東国には、半島からの俘囚を連れて帰ることも多かったろう。逆にこちらから渡ったものたちもあったろう。

前掲の『蝦夷』によると、中国では、徳の高い皇帝は、周辺の無知で野蛮な民族ですら皇帝を仰ぎ見て朝貢するのだという思想があり、皇帝や大王の徳が高いことを証明するためには周辺の蛮族の存在が不可欠になる、という論理らしい。日本の蝦夷や隼人も、そのためだけに存在したらしいが、狭い日本では、異民族でもない者が帰属してしまったらすぐに同化してしまうので、何代かは蝦夷などの呼称は外されなかったということらしい。何代経ても渡来人と呼んだ例も、その影響であろうか。

同書で気になっているのは、服従した蝦夷たちの名前に、氏と名が記録されていることで、上代なので姓と呼ぶものではないと思うが、要するに苗字である。蝦夷たちは本当に苗字を名のったのか、苗字があったのだろうかという問題なのだが、なかった可能性が大きいのではなかろうか。政権側の文書の書式のために、その場で地名などから作ったのかもしれないのだが、そのときの苗字で今も残っているものがあるのかどうかは、調べればすぐわかるのだろうけれど。
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