心配の種

645年の"大化の改新"については、むかし学校で習ったものだが、「公地公民制」など、意味がよくわからず、長年わだかまりをいだいていたが、石井紫郎という日本法制史の先生の説明がわかりやすかった(司馬遼太郎対談集『土地と日本人』)。
それによると、国が開墾した田を庶民に貸し与えて税金を納めさせるような感じで、つまり「公団住宅のようなもの」なのだそうだ。
大規模な制度というより、稲作の奨励程度のことのような印象である。
「農具は国が貸し出した」そうである。
もしかすると、鍬などを祀った神社の起源と関係あるかもしれない(ただし東海地方に多い鍬神は、近世初期に伊勢信仰から広まったという通説で良いのではと思う)。

そこで思い出すのは古事記の軽太子の話である。
允恭天皇の崩御の後、軽太子と穴穂皇子の争いになり、軽太子は敗れた。軽太子の矢は古い銅製であり、穴穂皇子の矢は新しい鉄製だった。それが勝負を分けた原因らしい。
新しい鉄製の道具が、何か新しい農業を象徴しているように思える。

種籾も、国が貸し出したのだろう。
大きな神社仏閣も貸し出したというが、利息を付けて返済するのが「年貢」の起源らしい。
近世に至っても、領主は種籾を貸して年貢を徴収した。種籾は農民が前年の収穫の一部を当てれば済むのかもしれず、そのへんは不明だが、少なくとも満足な収穫のない年もある。そういったときに、領主からの種籾の支給について心配した農民の文書も残っている。「心配の種」ということである。
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