神功皇后の男装の由来
新潟市出身の日本画家・尾竹国観(おたけこっかん、1880-1945)の歴史画の挿絵がたくさん掲載された本を古書店で見つけた(昭和4年の講談社の「修養全集」の1冊で金100円也)
画像は、神功皇后が筑紫に建てた行宮の橿日宮(かしひのみや)から新羅征伐に向う前の誓約(うけひ)の場面の絵である。うけひとは占いのようなことである。
日本書紀によると、筑紫の橿日の浦で、神功皇后は、長い黒髪を解いて海水にすすぎ、
「もし良きしるしがあるなら、この髪よ、二つに分かれよ」
と言うと、髪の先が二つに分かれた。皇后はそのまま髪を左右で「みづら」に結い、つまり男性の髪型をつくり、このときから男装したという。
尾竹国観の絵はつやのある場面の絵も少なくない。
神功皇后には、ほかにも、肥前玉島で鮎釣りをした「魚釣の石」の話などが日本書紀に見られる。
画像は、神功皇后が筑紫に建てた行宮の橿日宮(かしひのみや)から新羅征伐に向う前の誓約(うけひ)の場面の絵である。うけひとは占いのようなことである。
日本書紀によると、筑紫の橿日の浦で、神功皇后は、長い黒髪を解いて海水にすすぎ、
「もし良きしるしがあるなら、この髪よ、二つに分かれよ」
と言うと、髪の先が二つに分かれた。皇后はそのまま髪を左右で「みづら」に結い、つまり男性の髪型をつくり、このときから男装したという。
尾竹国観の絵はつやのある場面の絵も少なくない。
神功皇后には、ほかにも、肥前玉島で鮎釣りをした「魚釣の石」の話などが日本書紀に見られる。
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