消費儀礼について

対談集『歴史の中で語られてこなかったこと』の中の歴史学者の網野義彦氏の発言についての若干の疑問について。
近世の農民の割合が8割以上だというのはウソ、というのはその通りなのだろう。牧畜や養蚕は農業ではない。果樹栽培も農業ではないという。しかし藁の加工品も作らず全く田畑だけで働く人だけとなると、純農民というのはほとんどいなくなってしまうのではないだろうか。よくわからないが、米で年貢を納めた人は農民なのだろうか。
行政的に村という呼称でも実際は都市であることも多い、というのもその通りだろう。

国民の主食として米があまねく行き渡ったのは戦後のことだという。確かに昭和10年以前生まれの畑作地帯の人の実際の話を聞くと、それに近い話を聞く。米は主食としては重要ではなかったという。江戸時代は長屋の住人でも米を食べたというのは、都市民だからだなのだという。(以上『歴史の中で語られてこなかったこと』の話)

しかしここで疑問が湧いてしまう。実際の農民はそれほど数は多くなく、都市民が多かったというなら、米を主食にしていたのは都市民だけにすぎなかった(少なかった)、というのでは理屈に合わない。都市民的な人が多ければ米の消費も多くなるはずである。
実際にどうだったかはよくわからない。確かなことは、江戸時代に日本で生産された米はほとんどすべて日本で消費された。そして大金持ちの商人だからといって胃袋が特別に大きいわけではない、ということである。米はハレの食物だというが、庶民生活では月待ちやら先祖の月命日やらでハレの日はいくらでも有り得たのではないだろうか。

日本では、稲の生産過程でさまざまな神事が行われた。豊作を祈り、人々や地域の安寧を願っての神祭りである。しかしこれらは単に生産に関するだけの祭だといって良いのだろうか。少なくとも新穀感謝の祭は、消費の始りの儀礼に間違いない。さらに生産儀礼のなかにも消費儀礼の要素を見てゆければ良いと思う。

というのは、平成以後のさまざまな社会問題の原因について、現代人は生まれながらの消費者としてこの世に現れるからだという指摘が多いからである。
ある商品を買うという行為においては、子どもも大人も金持もすべてが平等であり、それが子どもや若い人にとっては限りない解放感になり、全てを消費者の目でしか見えなくなってしまう。そういう意味で今の若者はお金にこだわるのであって拝金主義ということではないのだと内田樹氏は言う。消費者は生まれながらの「お客さま」であり、お客さまとして待遇されるべき権利があり、それが少しでも損われたと感じたときに現代人のトラブルが発生するのだと森真一氏は言う。
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