志ん朝の落語を聞く

古今亭志ん朝の40代のころの落語CDの解説(榎本滋民氏)を読むと、明治の中ごろまでは40代くらいの人を「名人」と呼んだ例はいくつもあったので、われらが志ん朝を名人と呼ぶことにためらいはないのだ、といった意味のことが書かれていた。明治の末以降からどうも老人天国的な風潮になってしまったようだという。そのようなことは何も落語家の世界だけに限ったことではないのだろう。

けれど明治の後半から昭和の前半にかけては名人にふさわしい人が多かったのだろうとも思う。古典落語の人情話の話の緻密さなどは、近代文学の時代だからこそ整えられていったような気がする。
『文七元結』という噺で、半年で50両を返済する約束をするというのは、江戸中期ではなく、明治の初めに1両を1円に切り替えたころの物価水準でなければ考えられない。明治の名人によって噺の形が整ったことの名残りなのだろうなどと思った。そうして明治の名人たちは老人となっても尊敬を集めたが、昭和の後半以後の時代では、どの分野でもともすれば老人天国的な弊害も生じやすくなったということなのだろう。

『御慶(ぎょけい)』という噺は、年末の湯島天神の富籤に当たった男が、羽織を買って着て元旦の年始回りに行くという目出度い話。道を歩いていたら向こうから恵方参りの帰りの知人に会うというのだが、その年の歳徳神の方位にあたる宮に参拝する恵方参りは、現在の知識では明治の初期に流行したものということになるので、そのころは富籤はすでに廃止されていたと思う。こういうのも明治の香りなのかもしれない。あまり野暮な歴史考証をしすぎても噺は面白くない。
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