逢坂の関

蝉丸宮関大明神(伊勢参宮名所図会)京都にいちばん近い関所は、近江国へ抜ける逢坂(オウサカ)の関である。平安時代の初めここには盲目の琵琶法師、蝉丸が住んでいたという。百人一首に歌がある。

  これやこの、行くもかへるも別れては、知るも知らぬも逢坂の関  蝉丸

 (行く人も帰る人もここで別れ、知る人も知らぬ人もここで逢い、逢っては別れ、別れては逢うという逢坂の関は、これである)

江戸時代の伊勢参宮名所図会によると、関の東西に蝉丸宮二座がまつられ、関守神というが、蝉丸宮の名は近世に言われるようになったという。

 もみぢ葉を関守神に手向け置きて逢坂山を過ぐる木枯らし 実守(千載集)
 鳥居立つ逢坂山の境なる手向けの神よ、我ないさめそ   仲正(扶木抄)

関の手前で旅人は関守神に手向けをして旅の安全を祈った。手向けの品には幣(ぬさ、木綿の束など)が奉られることが多かったらしいが、歌を手向けることも重要なことであった。こういう場所の山は一般に手向山と呼ばれ、逢坂山もそう呼ばれたことがあったらしい。

伊勢参宮名所図会の話にもどると、「昔関所ごとに神祠を置けり。市に市姫の神、橋に橋姫の神を祭るがごとし」というが、関守神の具体的な固有の名は出てこない。しかし市姫や橋姫も固有名詞ではないのだろう。ただ少なくとも関守神は、市姫橋姫たちと同様に、境をまもる神、異界との橋渡しをしてくれる神であることは理解できる。関守神は、関戸明神、関の明神ともいう。

蝉丸宮と呼ばれた社は、今の滋賀県大津市逢坂1丁目の関蝉丸神社のことだろう。「当神社ハ嵯峨天皇御宇弘仁13年3月近江守小野朝臣岑守逢坂山ノ山上山下ノ二所ニ分祀シテ坂神ト稱奉ル是レ当社御鎮座ノ起源ナリ」という。祭神は「(主神)豊玉姫命 道反大神 (合祀)蝉丸 (主神)猿田彦命 (合祀)蝉丸」 とあり、上社と下社の祭神を続けて記したものと思われる。
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Comments

森の番人 | 2005/12/17 11:48
12/14の別の記事に次のコメントがありました。
> acb-kikaku http://snupii.blog.ocn.ne.jp/smart/">http://snupii.blog.ocn.ne.jp/smart/
> 逢坂の関の案内で、この場所の詳しい資料を教えてください、近江商人の動きや活躍にどれだけ影響したか知りたいのですが。

短文で主旨がわかりかねますが、場所は自分で調べられる範囲のことと思います。
| 2005/12/28 15:10
はじめまして。
Blog検索からこちらの記事を見つけ、TBさせていただきました。
私の記事は「『源氏物語』に描かれた逢坂の関」という観点で書いておりますが、貴Blogの歴史的な記述は興味深く拝見いたしました。
蝉丸神社が逢坂の関の境界を守る関守神の社から始まったという説明には、なるほどと思った次第です。
簡単ながら、ご挨拶まで。
森の番人 | 2006/01/02 13:12
明さん コメントありがとうございます。
コメント記事が非公開扱いとなっていましたが、システムのトラブルが原因かもしれず、公開とします。
数日後にはそちらの記事もじっくり拝見する時間がとれると思います。
きくちゃん | 2007/09/03 11:54
始めまして、「逢坂の関」で検索しましたら
こちらの、解説が非常に興味をそそられましたので
コメントさせて頂きました。
これからもゆっくりいろんな記事を、読ませていただきます。

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逢坂の関 | 源氏物語 | 2005/12/28 14:58
百人一首をはじめ多くの歌に詠まれ、歌枕の中でも特に有名な逢坂の関は、山城国と近江

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