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若宮塚と八幡の話


若宮塚と八幡の話

 群馬県利根郡月夜野町の村主八幡神社の境内西隅に若宮塚がある。
 室町時代の中ごろ、この地方の長者の家に如意姫といふ美しい娘があった。姫は、その美貌と歌の才によって都に召され、小桜の内侍(こざくらのないし)と呼ばれ、後花園帝の寵愛を一身に受けたが、後宮の女たちの妬みによって都を追はれ、御子(みこ)を宿したまま故郷へ帰った。当地で御子の明賢親王が生まれてまもないころ、都から「石の袋」を題に歌を求めて来た。姫は御子のたどたどしく口にした「いさご」の言葉から、機知に富んだ歌を送った。
  勅なれば石の袋も縫ふべきに、砂(いさご)の糸を縒りて給はれ   如意姫
 (帝の求めなら石の袋も縫ひませうが、ならばその前に砂で縒った糸をお与へください)
 御子は二才で病死し、若宮塚に葬られたといふ。(歌語り風土記)

 この話は、小さな塚の傍らの由緒板に書かれてあった。
 民俗学の研究によると「若宮」とは非業の死をとげた霊をまつったもので、平安後期以後の御霊信仰とともに広まったと、柳田国男以来いはれてゐる。
 谷川健一の著作で深谷市上手計の二柱神社の近くと思はれる若宮社について「大里郡神社誌」から紹介されてゐたことがある。

 「別当大沼院は、深谷城主上杉公の家臣 大沼弾正忠繁の祈願所にて、恒例に依り同城へ年賀登城の際、酒宴の席上 礼を失し、弾正の怒に触れ、恐れて城内を逃出したるも、大雪の為め歩行 意の如くならずして因り居たるに、殿は乗馬にて追跡し、遂に上手計村 栗田家の門松の蔭にて手打になりて斃れければ、遺骸を同地先へ埋葬せるに、院の妻また自害して失せけり。里人これを憐みて、両人をその地に若宮社として奉斎せりといふ。今に至るも、栗田家一族の年中行事の一として、重く祭事を執行せり。(大里郡神社誌)

 この話は村に松を植ゑず、正月に門松をたてぬ風習の説明になってゐる。
 若宮八幡の名でまつられる神社も、八幡神(応神天皇)の若君(仁徳天皇)を祭神とする場合も多いが、さうでないものや、他の伝説を習合させてゐるものも少なくない。三重県一志郡の川上山若宮八幡神社も、非業の死をとげた隼別皇子や地方豪族・藤原千方の伝説を習合させてゐる。この藤原千方と関連があると思はれる「千方神社」(千形、知形とも書く)は、何故か埼玉県周辺に多く、研究する価値はあると思ふ。
 「若宮」を省いて単に「八幡」の名だけで、不幸な霊をまつった場合も稀にあると、民俗学者はいふ。埼玉県児玉郡神川町元阿保の産塚八幡宮の伝説も、それに相当するのだらう。

 武蔵七党のうちの丹党の支流である阿保(あぼ)氏は、旧可美(かみ)郡阿保郷(神川町元阿保付近)を本拠として鎌倉室町期に独自の勢力を築いた。阿保忠実のころ、秋山新蔵人に攻められて、妻は井に身を投げたとも、生き埋めにされた(埼玉県伝説集成)ともいふ。その地には乳を求めて愛児の亡霊が夜毎ただよふといふので、里人は塚を築き祠を建てて霊をまつった。祠は、産塚(うぶづか)八幡宮と呼ばれ、安産守護を願ふ参詣者が絶えなかったといふが、明治の末に元阿保の阿保神社に合祀されたたとき、旧地に「産塚の碑」が建てられ、歌が刻まれてゐる。(歌語り風土記)
  ○世の人もこころにいのれ。産塚の千代まで残るこれの石文   金鑽宮守
  ○ありし世のむかし語りをしのぶ草、偲ぶもゆかし。産塚の跡  金鑽宮守

 元阿保の宮司さんの話では、この塚は発掘調査によるともっと古い古墳時代のものであるらしい。古い塚に新たに葬られたのかどうか、詳細はわからないが、不幸な母と子の霊が「八幡」の名でまつられたことは確かである。

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