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"日本の神々"


"日本の神々" うぶすな研究室の御案内

 特定の地域にしっかりと祭られてゐるにもかかはらず、これまであまり注目されない神々。しかも路傍の神々といった小さな神ではなく、地域の産土神(うぶすながみ)として広く祭られる神々。かういった神や社を、主に取り上げて行くページです。

 この場合に、神の名は、どちらかといへば、祭神名ではなく、神社名を重視します。別掲の本居宣長の一文にもある通り、祭神名は当てにならない面があります。このことは逆に、一部によくあるところの各神社の公式の御祭神を否定して本来の祭神云々とやる無謀な論調からは、最初から自由であるといふことです。また神社の規模が小さかったために同名の大神社と祭神名を同じにするばかりでなく、細かい御神徳その他まで緊急輸入するといった不幸への予防にもなるかもしれません。

 ここで取り上げる神々は、地方色の濃い神が多いので、日本各地の「地方」「地域」の理解への糸口を見つけることができるかもしれません。情報の中央集権化が進む中で、今現在の日本人は、これまでよりもさらに深い部分にあったものまで忘れ去り、失ひつつあるかのやうな時代になってしまったやうに思へてならないのですが、地方の神々に注目することによって、忘れてはならないものを一つづつ確認できるのではないかといふことです。(9/7)

 参考 本居宣長『玉勝間』
   巻七 二 神社の祭る神を知らまほしくする事(某書から孫引き)
 「古き神社どもには、いかなる神を祭れるにか、知られぬぞ多かる。神名帳にも、すべて祭れる神の御名は、記されず ただ其の社号のみを挙られたり。出雲風土記の、神社を記せる様も、同じことなり。社号すなはち其の神の御名なれば、さも有るべきことにて、古へはさしも祭る神をば、しひては知らでも有りけむ。然るを後の世には、必ず祭る神を知らでは、あるまじきことのごと心得て、知られぬをも、しひて知らむとするから、よろづに求めて、或は社号につきて、神代のふみに、いささかも似よれる神ノ名あれば、押しあてに其の神と定めたるたぐひ多ければ、其社に伝へたる説も、信がたきぞ多かる。
 そもそも神は、八百万の神など申して、天にも地にも、其の数限りなくおはしますことなれば、天の下の社々には、其の中のいづれの神を祭れるも、知るべからぬぞ多かるべき。神代紀などに出たる神は、その千万の中の一つにも足らざんめるを、必ず其の中にて、其の神と定めむとするは、八百万の神の御名は、神代紀に、ことごとく出たりと思ふにや。古書に御名の出ざる神の多かることを、思ひわきまへざるは、いかにぞや。さればもとより其の神といふ、古き伝へのなきを、しひて後に考へて、あらぬ神に定めむは、中々のひがごと也。もしその社ノ号によりて定めむとせば、たとへば伊勢の大神宮は、五十鈴宮と申せば、祭る神は、五十鈴姫命にて、鈴の神、外宮は、わたらひの宮と申せば、綿津見命にて、海神也とせんか。近き世に、物知り人の考へて定むるは、大かたこれに似たるものにて、いとうきたることのみなれば、すべて信がたし。知られぬを、しひて求めて、あらぬ神となさむよりは、ただその社ノ号を、神の御名としてあらんこそ、古への意なるべきを、社ノ号のみにては、とらへどころなきがごと思ふは、近き世の俗信にこそあれ。今の世とても、世に広く云ひならへる社号は、そをやがて神の御名と心得居て、八幡宮 春日明神 稲荷明神など云へば、かならずしもその神は、いかなる神ぞとまでは、たづねず。ただ八幡春日いなりにてあるにあらずや。もろもろのやしろも、皆同じことにて、社ノ号すなはち、其の神の御名なるものをや。」