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駒形神社・保食神・馬頭観音


駒形神社・保食神・馬頭観音

1、落馬した殿様と歌人の話
 熊谷市上之(かみの、旧成田村)に「葦毛の馬を飼はぬ話」といふ昔話がある。
 むかし成田といふ殿様が、葦毛の馬に乗って領地を視察して廻ったところ、ある小さなお宮の前で突然、馬が狂ったやうに跳ね上がり、殿様は落馬して大怪我をした。そのお宮は、雷電権現と久伊豆大明神といふ名で、どちらも葦毛の馬を忌み嫌ふのだといふ。そこで殿様は、その葦毛の馬を神馬として奉納し、以来氏子も、葦毛の馬は神馬なので飼はなくなったといふ。
 同様の話は全国にあり、葦毛の馬を嫌ふといふ神は、雷電さまばかりでなく、諏訪社であったり八幡社、天神社であったりする。昔の神様は馬に乗った姿で現はれることも多く、神様を乗せるやうな特別な馬(葦毛の馬、白い馬など)を神馬として神聖視する信仰があり、それが殿様まで落馬させるやうな昔話になって伝はってゐるやうなのである。
 上之の雷電神社は、雨乞の信仰もある水の神であるが、もと馬頭観音も安置したと大里郡神社誌(書籍版)にある。馬頭観音は東日本では道端の石璽などとしても多く祀られる神である。日本の馬頭観音は、古くは馬の頭を石や丸太に彫って道端に立て、馬の往来の安全を祈ったものだったのが、仏教の知識によって石に文字だけを彫るやうになったと、柳田国男翁はいふ(山島民譚集)。
 平安時代の歌人の藤原実方は奥州の道祖神の前で落馬して死んだといふ。百人一首の次の歌でも有名な歌人である。
  かくとだに、えやは伊吹のさしもぐさ、さしも知らじな燃ゆる思ひを 藤原実方
 伊吹山の薬草もききめなく、実方は落馬がもとで死んだとされる。
 藤原実方が落馬した場所には道祖神があったと京都の記録にあるやうだが、当時「道祖神」といふ言葉が東日本の民衆の間にあったかどうかは疑はしいので、馬頭観音と呼ばれる以前の馬頭神だったかもしれない。

2、駒形神社と保食神
 東日本に多い「駒形神社」は、祭神を保食神(うけもちのかみ)とするところが多い。青森県では、保食神社といふ名で同じ祭神が祀られ、元はやはり馬頭観音を祀ったといふ。その他の各地の駒形神社も馬頭観音を祀ったものが多いらしい。馬は関東東北では、かつては家族の一員のやうに扱はれ、またオシラ様(蚕神)などの神を乗せて現はれる動物でもある。
 岩手県で馬頭観音を祀ってゐたあるお宮が、明治に延喜式内社・駒形神社とされ、各地で同じ神社名に改称されたとのことである。
 なぜ祭神が保食神なのかについては、岩手県玉山村の駒形神社の由緒に日本書紀によるものとの説明があった。少し詳しく日本書紀から紹介する。
 ……月夜見尊は、保食神が飯や山海の珍しい物を口から吐き出して献ったとき、「穢らはしきかな」と怒って、保食神を剣で殺したため、日神の天照大神と仲違ひして、そのために夜と昼とに別居状態になったといふ。保食神のなきがらには、頭に牛馬が現はれ、額には粟、眉には蚕、眼には稗、腹には稲、陰には麦・大小豆が現はれた。穀物の種は天照大神によって拾はれ、人間の食物とするために天のサナ田で殖やされた。……
 保食神は穀物や蚕のほかに牛馬をつかさどる神であり、また「頭に牛馬」といふ姿から、馬頭観音と同一と視なされたらしいのである。

 一度は仏教の経典の知識により、二度目は日本書紀や延喜式により、名前を変へた神なのだといへる。しかし村鎮守となった以上は、牧畜のほか、養蚕や穀物などの「産業の神」となって良かったのだらう。
 馬頭観音は江戸時代以降のものであるとの説明が一部の事典などにあるが、それは路傍の石璽に文字を刻んだものに関してのことで、村々の鎮守についてはかなり古いと見たほうがよいだらう。

3、分布
 「駒形神社」は、一、二の例外を除いて東日本(静岡県長野県以東)の神社である。栃木県の生駒神社、青森県千葉県の保食神社も同系だらう。保食神社は九州にも多いが長崎県では牛を祀ってゐる例がある。 (14/9〜11)