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羊神社と羊太夫


  羊神社と羊大夫

  1 矢田といふ地名  〜"矢田に坐す羊大神"

 鳥越憲三郎『神々と天皇の間』(朝日新聞社)は、いはゆる欠史八代(二〜九代)の天皇の実在を最も合理的に説明する「葛城王朝説」を考証した書である。葛城王朝説は、奈良県葛城地方(御所市など)のいくつかの神社の公式の由緒書にも、引用されてゐるほどである。まづまづの説得力があるのは、文学を理解できる歴史家の一人だからなのかもしれない。
 氏が葛城王朝のさらに以前の物部王朝を語ったものが、『大いなる邪馬台国』(講談社)である。氏は、邪馬台国とは物部王朝のこととし、その本拠地を大和郡山市矢田町の矢田坐久志玉比古神社(やたにますくしたまひこじんじゃ)の付近だらうといふ。この神社の御祭神は饒速日命、古くは鳥見などとよばれた地である。矢田は仁徳天皇の后の矢田皇女の御名代の矢田部氏が移住したことに由来するらしく、矢田部氏は物部氏の一族とされる。
 さて、矢田といふ地名は郡や郷の名として各地にある。埼玉に近いところでは群馬県の吉井町の大字の名に残り、ここから北へ2kmほどのところに、奈良時代の和銅のころの古碑の多胡碑がある。多胡碑には、上野国に新たに多胡郡が設けられたことが文字で刻まれてゐる。多胡郡のなかの郷の一つが矢田郷であり、矢田郷には多胡碑のある場所も含まれたらうと吉田東伍はいふ。多胡碑は、多賀城碑、那須国造碑と並んで日本三古碑ともいはれるが、吉井町など地元では「羊さま」「羊大神」とも呼ばれ、信仰の対象ともなってゐるらしい。

  2 羊大夫の伝説

 多胡郡が新設されたときは、小さな郡ではあったが、この郡の支配権は「羊」と称する者に与へられたのだといひ、「羊」とは古代の地方豪族「羊大夫」のことであるといはれる。碑文の全文は次の通り。
 「弁官苻 上野国片岡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成給羊成多胡郡
  和銅四年三月九日甲寅宣 左中弁正五位下多冶比真人 太政官二品穂積親王
  左太臣正二位石上尊 右太臣正二位藤原尊」
 この碑文のなかの「給羊」を「羊に給ふ」と読み、「郡成給羊多胡郡」を「郡と成して羊に給ひて多胡郡と成す」と読むのが一般的である。あるいは「羊」の文字は人物のことではなく、祥や養の略字その他いろいろの説があるやうではあるが、地元には「羊太夫」の根強い伝説があり、この碑自身が「ひつじ様」と呼ばれて信仰の対象でもあったので、羊太夫と関連づけられて解釈されてきたのである。羊大夫の伝説とは、次のやうな話である。

 むかし羊大夫は、八束脛(やつかはぎ)といふ足の長い男を従者を使ひ、この男の力で空を飛び、驚くほどの速さで毎日のやうに大和へ通ってゐた。ある日八束脛が昼寝をしてゐるときに、大夫は悪戯に八束脛の脇の下の黒い羽のやうなものを抜いてしまった。そのために大和へ通へなくなった羊大夫は、謀反の疑ひをかけられて、都から差し向けられた軍に滅ぼされたといふ。八束脛は金の蝶と化して月夜野の石尊山まで逃れ、洞窟に隠れ住んだといひ、その遺跡に八束脛神社(利根郡月夜野町後閑)がまつられ、鳥居に「八束脛三社宮」とある。…… 羊大夫は、和銅年間に武蔵国の秩父で銅を発見して富み栄えたともいふ。羊神社は安中市にある。(歌語り風土記)

 八束脛といふ怪人物が登場する。新潟県の伝説などにも同名の怪人の話があり、日本書紀では日本武尊の東征に従った家来に七束脛の名もある。この名は、古代の東国における先住民ないしは蝦夷のやうな存在を意味するやうである。羊大夫は郡の支配権を認められたにもかかはらず、毎日大和へ通ったとは、不思議な話であるが、しばしば大和へ出向いたといふのは、おそらく服属まもない部族としての服属儀礼の意味があったのだと解釈すべきなのだらう。ところが羊太夫は、あるときから何かの理由で八束脛の協力が得られなくなったために、滅んだやうなのである。あるいは一種の仲間割れなのかもしれない。ともかく大和の勢力による軍に敗れた地元の支配者だったことは確かなやうである。
 室町時代の『神道集』といふ書によれば、履中天皇のころ、上野国の領主に伊香保大夫といふ者があり、これに家来として従ふ俊足の怪人の名が、羊大夫であるといふ。この羊大夫は、一人で手紙を都へ届け、往復するのに一日とかからなかったといふ。この話では羊太夫自身が八束脛のやうな存在として描かれてゐるのである。伝説の混乱なのか、それとも羊太夫と八束脛とはやはり限りなく近い存在だったと見るべきか、そのへんのところは謎なのだらう。

  3 羊神社

 群馬県安中市中野谷の羊神社(ひつじじんじゃ)は、今の多胡碑から十数キロメートル西方にある。境内には多胡碑と同じ文面を新たに刻んだ碑もある(写真参照)。境内の奉納誌などによると氏子には多胡の苗字がかなり多いやうで、戦国時代に羊大夫の子孫と称した武将が落ち延びて定住したとのことである。最初は江戸時代の初めに「多胡羊霊」の名で創祀されたといふ。社殿の背後の森は竹ばかりが繁るが、いつの時代からのものなのかは不明である。
 愛知県名古屋市北区辻町にも、羊神社といふ神社があり、延喜式内社とされる。「辻」の地名は元は「ひつじ」だったともいふ。羊太夫が上野国から大和へ通ったときに当地で休息をとった館の跡があるといふ。辻町の近くには「矢田」といふ地名もあり、上野多胡郡と関連するのかもしれない。
 そのほか、羊にちなむ神社としては、岩手県水沢市日高小路に日高神社があり、通称を「日高ひつじの妙見宮」といふ。むかし源頼義が祈願したときに「未(ひつじ)の刻」に大雨が止んだといふ話がある。また、和歌山県那賀郡打田町中井坂の西田中神社は、通称を「羊の宮」といふ。後述の石巻の零羊崎神社との縁も語られる。

  4 羊とカモシカ(羚羊)

 現代にいふ羊とは、毛織物を生産するために明治以後にオーストラリアなどから輸入されたものであるらしい。推古天皇のころに百済国からいくらか献上された記録もあるやうだが、あまり目出度い動物とは見なされなかったやうで、「羊の歩み」といふ言葉がある。
  極楽へまだわが心ゆきつかず、ひつじの歩みしばしとどまれ  慈円
 歌の意味は、極楽往生の悟りにはいまだ到達し得ないので、近づく死期に対し、しばらく止まって欲しいといふ意味である。死期が近づくことを「羊の歩み」と言ってゐるのは、中国ではおもに肉獣として飼育され、屠場に送られる羊の足どりのことから来た言ひ方らしい。
 さて、宮城県石巻市湊字牧山に、零羊崎神社(ひつじさきじんじゃ)がある。こちらは羊太夫とは無関係であるが、この地では、ヒツジとはカモシカの方言であるといふ。
 カモシカは「氈鹿(かもしか)」とも書き、「氈(かも)に織る鹿の意」と広辞苑にある。「その毛を毛氈(もうせん)などを織るのに用ゐた」といふ。別名をカマシシともいひ、老人に対する敬愛をこめた呼び方に「かまししの老翁」といふのもあった。カモシカは山の岩場などに住み、山の斜面を走り廻る健脚でもあるらしい。羊太夫の神出鬼没のイメージから言っても、羊太夫の「ひつじ」とは、カモシカの意味であると見るべきである。
 カモシカをヒツジと言ふのは、おそらく単なる方言ではなく、古くから大和言葉としてあった言葉なのだらう。渡来の動物を初めて見たとき、毛を織物に使ふといふ共通項から、その動物を「ひつじ」と呼んだ。都の人は漢籍の知識から動物としては不吉な見方もあったのだらうが、東国ではまさにカモシカの意味のままだったやうに思へる。カモシカは西日本では早くから数が少なくなり、たまに現はれたときには、牛鬼と呼ばれて畏怖されたといふ話もある。

  補足
 羊大夫帰化人説もあるが、これは近代日本を支へた群馬県富岡地方の紡績産業・養蚕業の姿を、古代に投影したものではないかと見ざるを得ない。群馬大学名誉教授・尾崎喜左雄氏は<帰化人が多かったはずなのに吉井町付近にはそれを思はせる大きな古墳がないのは不思議だ>と述べてゐる。吉井町から高崎市山名にかけて同時代の上野三碑があり、これは全国的にも珍しいもので、古墳文化とは別の文化が栄えたのかもしれない。あるいは羊神社のある安中市南部から富岡市北部にかけては、貫前神社を始め、磯部、丹生、鷺宮などの物部氏ゆかりの地名が多いことを考慮すると、「ひつじ」の名は物部氏の祖神の名である経津主(ふつぬし)の転であり、一部の物部氏の零落した姿が羊太夫であるとも想像できるのだが、詳細はわからない。

 参考資料 吉井町多胡碑記念館発行の資料。吉田東伍『地名辞書』。『神道集』。神社本庁『平成祭データ』。鳥越 憲三郎『大いなる邪馬台国』(講談社)。「歴史読本」昭和48年8月号(尾崎喜左雄論文、鳥越憲三郎論文)。