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  倭姫命世記


【天孫降臨】

 天地開闢のころ、初めて日が昇る時に、御饌都神(み け つ かみ)大日靈貴(おほひるめのむち)は、幽けき契を結んで、永く天下を照らし治めることの、言寿ぎをされた。或いは月となり日となり、永く落ちることなく、或いは神となり(すめろぎ)となり、常に窮み無かれと。その光が国々を照らし始めて以降、高天原に神とて留れる皇親神漏岐(すめむつかむろき)神漏美命(かむろみ のみこと)の二神に寄せて、八百万の神たちを天の高市に集へさせ、神たちの神議りにより、「大葦原の千五百秋の端穂国は、吾が子孫の王たるべき国なり。安国と平らけく、我が皇御孫尊(すめみまのみこと)の天降りて知ろし食せ」と、言を依せた。
 かく言を依せた国中に荒振る神たちを神祓へ平らけむと、神たちの議りによって諸神が申すには「天穂日命(あめのほひ のみこと)を遣して平けむ」と。そして天穂日命は天降ったが、この神は返り言をすることがなかった。次に遣はされた(子の)健三熊命(たけみくま のみこと)も、父神にしたがって返り言をしなかった。さらに遣はされた天若彦(あめのわかひこ)も返り言をせず、高つ鳥の(わざはひ)によって立ち処に身を亡した。
 そこで天津神の御言によって更に量り、経津主命(ふつぬし のみこと)健雷命(たけみかづち のみこと)の二神が、天降った。二神は、大己貴神(おほなむち のかみ)とその子・事代主神(ことしろぬし のかみ)に語言ひして、大己貴神が国造りのときに身につけた広矛を借り受け、螢火光る神や五月蝿なす声邪しき荒振る鬼神たちに、神祓へ神和めを為すと、語問ひ[騒いだ]磐根(いはね)樹立(きねたち)、草の片葉(かきは)まで語を止めたので、二神は「葦原の中つ国は皆すでに祓へ平らけ定めぬ」と復命した。

 天照大神は、八坂瓊(やさかに)曲玉(まがたま)八咫鏡(やたのかがみ)草薙剱(くさなぎのつるぎ)の三種の神財(みたから)を皇孫に授け賜ひ、「永く天つ(しるし)となして、この宝鏡を視ることまさに吾を視るが如くし、ともに同床共殿せる斎鏡となし、宝祚の(さかえ)はまさに天壌(あめつち)と窮まり無し」と宣たまった。
 天津彦火瓊々杵尊(あまつひこほのににぎ のみこと)に伴神としたがふ天児屋命(あめのこやね のみこと)は、先駆の祓へを掌って宣たまふに「謹み請ひて再拝す。諸神たち各々念へ。この時天地清浄と、諸法は影像の如くなり。清浄は仮初にも穢れ無し。説を取りて得べからず。皆因より業を生せり」と御言を省みた。また、太玉命(あめのふとだま のみこと)は、青和幣(あをにぎて)白和幣を捧げ、天牟羅雲命(あめのむらくも のみこと)は、太玉串を取り、かくして三十二神が前後に相副って従ひ、天の関を開き、雲路を分けて道を祓ひ、皇御孫命は、天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて、筑紫の日向の高千穂の串触の峯に、天降り到った。それより天下を治らすこと二十一万八千五百四十三年。この時、天と地は未だ遠からずあり、天つ柱を立てて天上に挙げ届けた。

 天津彦彦火瓊瓊杵尊正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみ のみこと)の太子。母は栲幡千姫(たくはたちちひめ)で、高皇産霊尊(たかみむすひ のみこと)の女〕。
 彦火火出見尊(ひこほほでみ のみこと)〔天津彦彦火瓊瓊杵尊の第二子。母は木花開耶姫(このはなのさくやひめ)で、大山祇神(おほやまつみ のかみ)の女〕。天下を治らすこと六十三万七千八百九十二年。
 彦波瀲武鵜草茸不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあへず のみこと)〔彦火火出見尊の太子。母は豊玉姫で、海童(わたつみ)の女〕。天下を治らすこと八十三万六千三十二年。

【神武天皇】

 神日本磐余彦天皇(かむやまといはれひこ のすめらみこと)〔彦波瀲武鵜草茸不合尊の第四子。母は玉依姫で、海童の女〕。
 天皇(神武天皇)は生れながら賢く心強くあり、御年十五歳で大子となられた。四十五歳のとき、諸兄や子たちに言はれるに、
 「むかし高天原の高皇産霊尊と大日靈尊は、この豊葦原の瑞穂国を我が皇祖である彦火瓊瓊杵尊に授けた。火瓊瓊杵命は、天の関を開いて雲路をかき分け、道を祓って降臨された。太古の荒涼の地は混沌とあらはれ、道暗き中に正しきを養ひ、西偏より治らした。皇祖は神また聖として、慶びを重ね輝きを増し、多く年を歴て、天祖の降跡より以遠、今に一百七十九万二千四百七十余年なり。」
 元年[甲寅歳]冬十月、日の本の国に向ひ発ち、天皇は諸皇子の船団とともに東征された。
 八年[辛酉]正月、都を柏原[橿原]に建て、帝宅を経営し、皇孫命の美豆御舎(みづのみあらか)を造り仕へ奉って、天の御蔭・日の御蔭と隠り坐して、四方の国を安国と平らけく知ろし食した。天つ璽の剱鏡を捧げ持ちて、言寿ぎするに、「天津日嗣を、万千秋の長秋に、護り奉り祐け奉る」と称へ、言を()へられた。
 神倭伊波礼彦天皇(神武天皇)より、稚日本根子彦大日々天皇(かむやまとねこひこおほひひ のすめらみこと)(開化天皇)までの九帝、年歴て六百三十余年。帝と神の境際は未だ遠からずあり、同殿共床を常とした。故に、神の物と官の物もまた、未分別だった。

【崇神天皇、豊鋤入姫命】

 御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにゑ のすめらみこと)(崇神天皇)の即位六年[己丑]秋九月、倭笠縫邑(かさぬひのむら)磯城(しき)の神籬を立て、天照大神と草薙の剱を奉遷し、皇女豊鋤入姫命(とよすきいりひめ のみこと)に奉斎せしめた。その遷祭の夕べに、宮人は皆参詣し、終夜、宴楽歌舞した。その後、大神の教へのままに、国々処々に大宮処を求めた。神武天皇以来九帝のあひだ同殿共床にあり、漸く神の勢ひを畏れ、共に住むこと安からずと、改めて斎部(いむべ)氏をして石凝姥神裔天日一箇裔の二氏を率て、更めて鏡剱を鋳造し、以て護身御璽と為した。今の践祚の日に献る神璽鏡剱は、これである〔内侍所といふ〕。

 三十九年[壬戌]、但波の吉佐宮(余社宮)に遷幸し、四年間奉斎。ここから更に倭国へ求める。この年に 豊宇介神(とようけ のかみ)が天降って(大神に)御饗を奉る。
 四十三年[丙寅]、倭国伊豆加志本宮(厳橿之本宮)に遷り、八年間奉斎。
 五十一年[甲戌]、木乃国奈久佐浜宮(名草浜宮)に遷り、三年間奉斎。この時、紀国造は、舎人 紀麻呂、良き地口・御田を進った。
 五十四年[丁丑]、吉備国名方浜宮に遷り、四年間奉斎。この時、吉備国造は、采女 吉備都比売、地口・御田を進った。

【倭姫命】

 五十八年[辛巳]、倭弥和乃御室嶺上宮(美和之御諸宮)に遷り、二年間奉斎。この時、豊鋤入姫命は、「吾、日足りぬ」といひ、姪の倭比売命(やまとひめ のみこと)に事を預け、御杖代と定めた。これより倭姫命が、天照大神を奉戴して行幸した〔相殿神は天児屋命 太玉命。御戸開闢神は天手力男神 拷幡姫命。御門神は 豊石窓 櫛石窓命。並びに五部伴神、相副って仕へ奉る〕。
 六十年[癸未]、大和国宇多秋宮(宇太阿貴宮)に遷り、四年間奉斎。この時、倭国造は、采女 香刀比売(かとひめ)、地口・御田を進った。大神が倭姫命の夢に現はれ「高天の原に坐して吾が見し国に、吾を坐せ奉れ」と諭し教へた。倭姫命はここより東に向って乞ひ、うけひして言ふに、「我が心ざして往く処、吉きこと有れば、未嫁夫童女に相(逢)へ」と祈祷して幸行した。
 すると佐々波多が門(菟田筏幡)に、童女が現はれ参上したので、「汝は誰そ」と問ふと、「やつかれは天見通命の孫、八佐加支刀部(やさかきとめ)〔一名は伊己呂比命(いころひ のみこと)〕が児、宇太乃大称奈(うだのおほねな)」と申上げた。
 また「御共に従ひて仕へ奉らむや」と問へば「仕へ奉らむ」と申上げた。そして御共に従って仕へ奉る童女を大物忌(おほものいみ)と定めて、天の磐戸の(かぎ)を領け賜はって、黒き心を無くして、丹き心を以ちて、清潔く斎慎み、左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし、右を右とし、左に帰り右に廻る事も万事違ふ事なくして、太神に仕へ奉った。(はじめ)を元とし、本を本にする所縁である。また弟大荒命も同じく仕へ奉った。宇多秋宮より幸行して、佐々波多宮に坐した。

 六十四年[丁亥]、伊賀国隠市守宮(なばりのいちもり のみや)に遷幸した。二年間奉斎〔伊賀国は、天武天皇の庚辰歳七月に伊勢国の四郡を割いて彼国を立てた〕。

 六十六年[己丑]、同国の穴穂宮(あなほ のみや)に遷り、四年間奉斎。伊賀国造は、箆山(みふぢ)(くろかづら)山戸(やまのへ)、並びに地口・御田を進った。鮎(細鱗魚)取る淵・梁作る瀬など、朝御饌・夕御饌を供へ進った。

【垂仁天皇】

 活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさち のすめらみこと)(垂仁天皇)の即位二年[癸巳]に、伊賀国敢都美恵宮(あへとみゑ のみや)に遷り、二年間奉斎。

 四年[乙未]、淡海国甲賀の日雲宮に遷り、四年間奉斎。この時、淡海国造は、地口・御田を進った。

 八年[己亥]、同国坂田宮に遷幸し、二年間奉斎。この時、坂田君等は、地口・御田を進った。

 十年[辛丑]、 美濃国伊久良河宮に遷幸し、四年間奉斎。次に、尾張国中嶋宮に遷座し、倭姫命は国寿きされた。この時、美濃国造等は、舎人 市主、地口・御田を進り、御船一隻を進った。同じく美濃県主は、角鏑を作り、御船二隻を進るに、「捧ぐ船は天の曾己立、抱く船は、天の御都張」と申上げて進った。また、采女 忍比売(おしひめ)、また地口・御田を進った。忍比売の子がうけ継いで天の平瓮八十枚を作って進った。

 十四年[乙巳]、伊勢国桑名野代宮(くはなのしろ のみや)に遷幸して、四年間奉斎。
 この時、国造大若子命〔一名大幡主命〕が現はれ参上して御共に仕へ奉ったので、国内の風俗を奏上させた。また、国造建日方命(たけひかた のみこと)が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと「神風の伊勢国」と申上げ、舎人弟 伊尓方命(いにかた のみこと)、また地口・神田・神戸を進った。若子命は、舎人弟 乙若子命を進った。

 次に、川俣県造の祖の大比古命(おほひこ のみこと)が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと「味酒(まさけ)鈴鹿国、なぐはし忍山(おしほやま)」と申上げた。そして神宮を造り奉って幸行せしめた。また神田・神戸を進った、

 次に、阿野県造の祖の真桑枝大命(まくはしおほのみこと)に「汝が国の名は何そ」と問ふと、「草蔭(くさふか)阿野国」と申上げて、神田・神戸を進った。

 次に、市師(一志)県造の祖の建呰古命(たけしこ のみこと)に「汝が国の名は何そ」と問ふと、「害行(あらひゆく)阿佐賀国」と申上げて、神戸・神田を進った。

【阿佐加藤方片樋宮】

 十八年[己酉]、阿佐加の藤方片樋宮(ふぢかたかたひのみや)に遷坐し、四年間奉斎。
 この時、阿佐加の嶺に坐していつ速ふる神は、百人往く人を五十人取り殺し、四十人往く人を二十人取り殺した。かく、いつ速ふる時に、倭比売命は、朝廷に大若子を進上して、その神の事を奏上すると、(天皇は)「種々の大手津物(おほたなつもの)を彼の神に進り、柔はししづめ平げ奉れ」と詔して、遣はし下された。そこで、阿佐加の山嶺に社を作り定めて、その神を柔はししづめ上げ奉り、労ぎ祀った。神は「うれし」と詔ったので、そこを名づけて「宇礼志」といふ。
 その地を渡り坐す時に、阿佐加の加多なる多気連等の祖、宇加乃日子の子、吉志比女、次に吉彦の二人が現はれ参上したので、「汝らがあさる物は何そ」と問へば、「皇太神の御贄のはやし奉り上げむと、きさ(赤貝)をあさる」と申上げた。「白すこと恐し」と詔して、そのきさを太神の御贄に進らせて、佐々牟の木枝を割き取りて、(いけ)燧きに うけ燧きらせると、その火燧り出でて、采女忍比売が作った天の平瓮八十枚を、伊波比戸に仕へ奉った。吉志比女は、地口・御田・麻園を進った。

一書に曰く、天照太神、美濃国より廻り、安濃藤方片樋宮に到りて座す。時に安佐賀山に荒神有り、百往く人は五十人亡し、四十往ひ人は二十人亡す。茲に因り、倭姫命、度会郡宇遅村五十鈴川上の宮に入坐さず、藤方片樋宮に奉斎す。時に安佐賀荒悪神の為行を、倭姫命は、中臣大鹿嶋命・伊勢大若子命・忌部玉櫛命を遣して天皇に奏聞し、天皇詔す。
「其の国は、大若子命の先祖天日別命の平げし山なり。大若子命、其の神を祭り平げ、倭姫命を五十鈴宮に入り奉らしめよ。即ち種々の幣を賜ひて大若子命を返遣して其の神を祭らしむ。已に保く平げ、即ち社を安佐駕に定め、以ちて祭る。而後、倭姫命即ち入坐すこと得。但し其の渡物は敢へて返取らず。」


【飯野の高宮】

 二十二年[癸丑]、飯野の高宮に遷り、四年間奉斎。この時、飯高県造の祖の乙加豆知命(おとかづち のみこと)に「汝が国の名は何そ」と問ふと、「いすひ 飯高国」と申上げて、神田・神戸を進った。倭姫命は「飯高しと白すこと貴し」と悦ばれた。
 次に、佐奈(佐那)県造の祖の弥志呂宿祢命(みしろのすくね のみこと)に、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「こもりく 志多備の国、まくさむ 毛佐向国(草向ふ国)」と申上げて、神田・神戸を進った。
 また大若子命に「汝が国の名は何そ」と問ふと、「百張(ももはる)蘇我の国、五百枝刺(いほえさす)竹田の国」と申上げた。その処に(倭姫の)御櫛が落ちたので、その地を櫛田と名づけ、櫛田社を定められた。
 ここから御船に乗って幸行し、河後の江に到ると、魚が自然と寄り集って、御船に参ゐ乗った。倭姫命は、それを見て悦ばれ、魚見社を定められた。
 さらに幸行すると、御饗を奉れる神が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「白浜 真名胡国」と申上げた。その所に兵名胡神社を定められた。
 また乙若子命は、麻神・草霊等を倭姫命に進って、祓へとした。陪従の人に及ぶまで弓剱を留めて、兵と共に飯野高丘に入り座して、遂に五十鈴宮に向ふを得た。爾来、天皇の太子、斎宮、駅使・国司人等に至るまで、川辺で祓へをし、鈴声を止む。その儀の所縁である。
 さらに幸行して、佐々牟江に御船を泊め、そこに佐々牟江宮を造って遷座し、大若子命は「白鳥の真野国」と国寿き申上げた。そこに佐々牟江社を定められた。
 そこから幸行する間に、風浪は無く、海潮は大淀に淀んで御船が幸行できたので、倭姫命は、悦ばれて、その浜に大与度社を定められた。
〔天照太神、倭姫命に教へてのたまふに「これ、神風の伊勢国は、即ち常世の浪の重浪(しきなみ)帰す国なり、傍国(かたくに)可怜(うまし)国なり、この国に居らむと欲ふ」と。太神の教への随に、宮祠を伊勢国に立て、斎宮を五十鈴川上に興された。これを礒宮といふ。天照太神の始めて天より降りし処なり〕。

【伊雑宮、瀧原宮、二見】

 二十五年[丙辰]春三月、飯野高宮より遷幸して 伊蘇宮に坐す。この時、大若子命に「汝がこの国の名は何そ」と問ふと、「百船(ももふね)度会国、玉綴(たまひろふ)伊蘇国」と申上げて、御塩浜・林を定めて奉った。この宮に坐して供奉り、御水の在所は御井となづけた。

 倭姫命は、「南の山は未だ見ざれど、吉き宮処の有るべく見ゆ」と詔して、宮処を求めに大若子命を遣した。倭姫命は、皇太神を奉戴して小船に乗り、その船に雑々の神財・忌楯桙を留め置き、小河へと幸行された。御船は後れて下がり、駅使等が「御船うくる」と申上げたので、そこを宇久留となづけた。
 そこから幸行すると、速河彦(はやかはひこ)が現はれ詣でたので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「畔広(あぜひろ)の狭田国」と申上げて、佐佐上の神田を進った。その地に速河狭田社を定められた。
 さらに幸行すると、高水神が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「岳高田(をかたかだ)深坂手国(ふかさてのくに)」と申上げ、田上の御田を進った。そこに坂手社を定められた。
 さらに幸行すると、河が尽き、その河の水は寒かったので、寒河となづけた。そこに御船を留め、御船神社を定められた。そこから幸行した時、御笠服(みかさき)を給ったので、そこを加佐伎といふ。
 大川の瀬を渡らむとすると、鹿の(ししむら)が流れ寄ったので、「是、悪し」と詔して渡らず、その瀬を相鹿瀬(逢鹿瀬)となづけた。
 そこから河上を指して幸行すると、砂流れる速き瀬があった。真奈胡神(まなご のかみ)が現はれ参上して、御船をお渡しした。その瀬を真奈胡御瀬となづけて御瀬社を定められた。
 そこから幸行して美き地に到った。真奈胡神に、「国の名は何そ」と問ふと、「大河の滝原の国」と申上げた。その地に、宇大の大宇祢奈に荒草を苅り掃ひさせ、宮を造って坐さしめたが、この地は、皇太神の欲ほし給ふ地には有らずと悟った。また大河の南へ宮処を求めて幸行するに、美き野に到って、宮処求め侘びて、そこを和比野となづけた。
 そこから幸行すると、久求都彦(くくつひこ)が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「久求の小野」と申上げた。倭姫命は詔して、この御宮処を久求小野(くくのをの)となづけ、久求社を定められた。久求都彦が、「吉き大宮処有り」と申上げたので、そこに幸行すると、園作神が現はれ参上して、御園地を進った、それを悦ばれて園相社を定められた。さらに幸行すると、美し小野が有った。倭姫命はそれを愛で給ひ、そこを目星野となづけた。その森に円らなる小山があり、都不良となづけた。そこから幸行すると、沢道野があり、沢這小野となづけた。

 その時、大若子命が、河から御船を率ゐて、御迎へに参上した。倭姫命は大く悦ばれ、「吉き宮処あるや」と問ふと、大若子命は「さこくしろ宇遅の五十鈴の河上に、吉き御宮処あり」と申上げた。倭姫命が悦ばれて問ふに、「此の国の名は何そ」と問ふと、「御船向田国(みふねたむけのくに)」と申上げた。御船に乗って幸行し、その忌楯桙種々神宝物を留め置いた。所の名は忌楯小野となづけた。

 その地から幸行すると小浜があり、鷲取る老翁があった。倭姫命が、「御水(おもゆ)飲らん」と詔して、「何処に吉き水あらむ」と問ふと、老翁は、寒なる御水を以て御饗を奉った。それを讃めて水門に水饗神社を定め、浜の名を鷲取小浜となづけた。

 かくして二見浜に御船を泊め、大子命に「国の名は何そ」と問ふと、「速雨 二見国」と申上げた。永くその浜に御船を留めて坐す時、佐見都日女が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、詔を聞かず何も答へずに、堅塩を以て多き御饗を奉った。倭姫命は慈しんで堅多社を定められた。乙若子命はその浜に御塩と御塩山を定め奉った。

【五十鈴河後の江】

 そこから幸行して五十鈴河の後の江に入ると、佐美川日子が現はれ参上したので、「この河の名は何そ」と問ふと、「五十鈴河後」と申上げた。その処に江社を定められた。
 また荒崎姫が現はれ参上したので、国の名を問ふと、「皇太神の御前の荒崎」と申上げた。「恐し」と詔して、神前社を定められた。
 この江の上に幸行して御船を泊め、所の名を御津浦となづけた。更に上に幸行すると、小嶋があり、その嶋に坐して山末や河内を見廻らすと、大屋門の如きところの前に平地があったので、そこに上って、所の名を大屋門となづけた。
 さらに幸行して、神淵河原に坐すと、苗草を戴く耆女が現はれ参上したので、「汝は何する耆女そ」と問ふと、「我は苗草を取る女、名は宇遅都日女(うぢつひめ)」と申上げた。また、「などか、かく為るそ」と問ふと、耆女は「この国は鹿乃見哉毛為」と申上げたので、そこを鹿乃見となづけた。「何そこれ」と問ふと「止可売」と申上げたので、そこを止鹿乃淵となづけた。
 そこから矢田宮に幸行した。次に家田の田上の宮に遷幸し、その宮に坐す時、度会大幡主命、皇太神の朝御饌・夕御饌処の御田を定め奉った。宇遅田々上にある抜穂田のことである。

 そこから幸行し、奈尾之根宮(なをしねのみや)に座す時、出雲神の子出雲建子命(いづもたけこ のみこと)、一名伊勢都彦神(いせつひこ のかみ)、一名櫛玉命(くしたま のみこと)、並びにその子大歳神、桜大刀命(さくらとし のみこと)、山神・大山罪命、朝熊水神(あさくまのみなと のかみ)たちが、五十鈴川の後江で、御饗を奉った。
 その時、猿田彦神の裔、宇治土公の祖の大田命が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「さこくしろ宇遅の国」と申し上げ、御止代の神田を進った。倭姫命が「吉き宮処あるや」と問ふと、「さこくしろ宇遅の五十鈴の河上は、大日本の国の中にも殊勝なる霊地あるなり。その中に、翁三十八万歳の間にも未だ視知らざる霊物あり。照耀くこと日月の如くなり。惟ふに、小縁の物に在らじ。定めて主の出現御坐さむとする時に、『献るべし』と思ひてここに敬ひ祭り申す。」
 これにより彼の処に往き到って、御覧じれば、昔、大神が誓願されて、豊葦原瑞穂国の内の伊勢のかさはや(風早)の国に美し宮処ありと見定められ、天上から投げ降ろされた天の逆太刀・逆桙・金鈴等が、そこにあったので、甚く懐に喜ばれて、言上げされた。

【五十鈴河上】

 二十六年[丁巳]冬十月[甲子]、天照太神を奉遷し、度会の五十鈴の河上に留る。
 この年に、倭姫命は、大幡主命、物部八十友諸人たちに詔ふ。「五十鈴原の荒草・木根を苅り掃ひ、大石・小石を造り平げて、遠山(をちのやま)近山(こちのやま)大峡(おほかひ)小峡(をかひ)の立木を斎部の斎斧で伐り採り、本末は波山祇(はやまつみ)に奉祭り、中間を持出し来て斎鋤で斎柱を立て〔一名天御柱、一名心御柱〕、高天原に千木高知りて、下つ磐根に大宮柱広敷立て、天照太神並びに荒魂宮和魂宮と鎮まり坐し奉る。」
 美船神、朝熊水神たちは、御船に乗って、五十鈴の河上に遷幸した。この時、河際で倭姫命の長い御裳の裾の汚れを洗はれた。以来、その河際を御裳須曾河といふ。
 采女忍比売に、天の平瓮八十枚を造らせ、天富命孫に、神宝鏡・大刀・小刀・矛楯・弓箭・木綿等を作らせ、神宝・大幣を備へた。皇太神が倭姫命の夢に現はれ、「我、高天原に坐して、甕戸に押し張り、むかし見て求めし国の宮処は是処なり。鎮り定り給へ」と諭された。
 倭姫命は、御送駅使安部武渟河別命、和珥彦国茸命、中臣国摩大鹿嶋命、物部十千根命、大伴武日命、度会大幡主命等に、夢の状を教へ知らせた。
 大幡主命は悦び、「神風の伊勢国、百船 度会県、さこくしろ宇治の五十鈴の河上に鎮り定まり坐す皇太神」と国寿き申し上げ、終夜ら宴楽舞歌し、日小宮の儀の如く祭った。倭姫命は、「朝日来向ふ国、夕日来向ふ国、浪音聞えざる国、風音聞えざる国、弓矢柄音聞えざる国、打まきしめる国、敷浪七保国の吉き国、神風の伊勢国の百伝ふ度会県の さくくしろ五十鈴宮に鎮り定り給ふ」と、国寿きされた。
 送駅使が朝廷に還り上り、倭姫命の夢の状を返事申上げると、天皇はこれを聞こし食して、大鹿嶋命を祭官に定め、大幡主命を神の国造兼大神主に定められた。神館を造り立て、物部八十友諸人等を率ゐて、雑雑の神事を取り総べ、天太玉串を捧げて供奉させた。よって斎宮を宇治県の五十鈴川上の大宮の際に興し、倭姫命をして居らしめた。また八尋機屋を建て、天棚機姫神の孫八千々姫命に大神の御衣を織らしめることは、天上なる儀の如し〔宇治機殿と号す。一名を礒宮〕。次に、櫛玉命、大年神、大山津見山神、朝熊水神等が饗を奉れる彼処に神社を定められ、神宝〔伊弉諾伊弉冉尊の捧げ持つ白銅鏡二面のこと。日神月神の化れる鏡で、水火二神の霊物となす〕を留め置いた。


【御饌つ国、志摩】

 倭姫命は、御船に乗り、御膳御贄処を定めた。
 嶋(志摩)の国の国崎嶋に幸行し、「朝御饌、夕御饌」と詔して、湯貴潜女(ゆきのかづきめ)等を定め、還るときに神堺を定めた。戸嶋、志波崎、佐加太岐嶋を定め、伊波戸(いはと)に居て、朝御気・夕御気の処を定めた。倭姫命がここに御船を泊めると、鰭広鰭狭魚、貝つ物、奥つ藻、辺つ藻が寄り来て、海の潮は淡く和み、よって淡海浦となづけた。伊波戸に居た嶋の名を、戸嶋となづけ、刺す処を柴前(しばさき)となづけた。その以西の海中に七つの嶋があり、以南は潮淡く甘く、その嶋を淡良伎の嶋となづけ、潮の淡く満ち溢れる浦の名を、伊気浦(いきのうら)となづけた。その処に現はれ参上して、御饗を仕へ奉った神を淡海子神(あはのみこ のかみ)となづけて社を定め、朝御饌・夕御饌嶋を定めた。還り幸行して御船を泊めた処を、津長原(つながはら)となづけ、津長社を定められた。

 二十七年[戊午]秋九月、鳥の鳴声が高く聞えて、昼夜止まず囂ししかったので、「此、異し」と宣して、大幡主命と舎人紀麻良を、使に遣って鳥の鳴く処を見させた。行って見ると、嶋国の伊雑の方上の葦原の中に稲一基があり、根本は一基で、末は千穂に茂ってゐた。その稲を白真名鶴が咋へて廻り、つついては鳴き、これを見顕すと、その鳥の鳴声は止んだ。かく返事を申上げた。
 倭姫命が宣ふに、「恐し。事問はぬ鳥すら田を作る。皇太神に奉れる物を」と詔して、物忌を始められ、彼の稲を伊佐波登美神をして抜穂に抜かしめて、皇太神の御前に懸久真に懸け奉り始めた。その穂を大幡主の女子乙姫に清酒に作らせ、御餞に奉った。千税を始奉る事、茲に因る也。彼の稲の生ひし地は、千田となづけ、嶋国の伊雑の方上にある。その処に伊佐波登美の神宮を造り奉り、皇太神の摂宮と為した。伊雑宮がこれである。彼の鶴真鳥を名づけて大歳神といふ。同じ処の税を奉る。またその神は、皇太神の坐す朝熊の河後の葦原の中に、石に坐す。彼神を小朝熊山嶺に社を造り、祝奉りて坐す。大歳神と称ふるは是なり。

 また明る年秋のころ、真名鶴は、皇太神宮に向かって天翔り、北より来て、日夜止まずに翔り鳴いた。時は昼の始め。倭姫命は、異しまれて、足速男命を使に見させた。使が行くと、鶴は佐々牟江宮の前の葦原の中に還り行きて鳴いてゐた。そこへ行って見ると、葦原の中から生へた稲の、本は一基で、末は八百穂に茂り、(鶴は穂を)咋ひ捧げ持って鳴いた。使が見顕すと、鳴声は止み、天翔る事も止めた。かく返事を申上げた。
 倭姫命は、歓ばれて詔ふに、「恐し、皇太神入り坐さば、鳥禽相悦び、草木共に相随ひ奉る。稲一本は千穂八百穂に茂れり」と詔して、竹連吉比古等に仰せて、初穂を抜穂に半分抜かしめ、大税に苅らしめ、皇太神の御前に懸け奉った。抜穂は細税といひ、大苅は太半といひ、御前に懸け奉った。よって、天都告刀に「千税八百税余り」と称へ白して仕奉る。鶴の住処には八握穂社を造り祠った。
 また「伊鈴の河の漑水道田には、苗草敷かずして、作り養へ」と詔った。
 また「我が朝御饌夕御饌の御田作る家田の堰の水の道の田には、田蛭穢しければ、我田には住まはせじ」と宣った。

(以下は口訳せず)

【忌詞、祓法】

 また、種々の事を定め給ふ。
 「内の七言」とは、仏を中子といひ、経を染紙といひ、塔を阿良々伎といひ、寺を瓦茸といひ、僧を髪長といひ、尼を女髪長といひ、長斎を片膳といふ。
 「外の七言」とは、死を奈保留といひ、病を夜須美といひ、哭を塩垂といひ、血を阿世といひ、打を撫といひ、完を菌といひ、墓を壌といひ、また優婆塞を角波須といふ。
 また、祓法を定め給ひ、敷蒔、畔放、溝埋、樋放、串刺、生剥、逆剥、屎戸、許々太久の罪をば、天つ罪と告り別けて、生膚断、死膚断、母犯罪、子犯罪、己子犯罪、畜犯罪、白人、古久弥、川入、火焼罪をば、国つ罪と告り分けて、天つ金木を、本打ち切り末切り断ちて、千座の置座に置き足らはして、天つ菅麻は、本苅り断ち末苅り切りて八針に取り刺きて、種々の贖物をば、案上案下に海山の如くに置き足らはして、天つ祝詞の大祝詞事を宣れ、如此く宣らば、天つ神、国つ神は、朝廷を始めて天下四方の国には、罪と云ふ罪は在らじと、清浄に聞し食さむ。掌に其の解除の太詩辞を以ちて、天罪国罪の事を大祓して除け。

 また、年中雑神態、三節祭を定め賜ふ。御贄の嶋に神主等を罷りて、御贄を漁りて、嶋国の国前の潜女が取り奉る玉貫の飽、鵜倉送柄嶋の神戸の進る堅魚等の御贄、国々処々寄せ奉る神戸人民の奉る太神酒、御贄荷前等を、海山の如く置き足らはして、神主部・物忌等、忌み慎みて、聖朝の大御寿を、手長の太寿と、湯津石村の如くに、常磐に堅磐に、天つ告刀の太告言事を以ちて称へ申し、終夜ら宴楽舞詠ひ、歌音の巨く細く大に少なに長く短く、国ほき奉る〔十二詠は別巻に在り、年中行事記に具かなり云云〕。

【五百野皇女、日本武尊】

 大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけ のすめらみこと)の二十年[庚寅]、倭姫命、「歳既に老いぬ、仕ふること能はず、吾足りぬ」と宣ひて、斎内親王に仕奉るべき物部八十氏の人々を定め給ひて、十二司寮官等をば五百野皇女久須姫命(いほののひめみこ くすひめのみこと)に移し奉る。
 即ち春二月[辛巳]朔[甲申]、五百野皇女を遣して、御杖代とて、多気宮を造り奉りて、斎ひ慎しみ侍らしめ給ひき。伊勢斎宮群行の始、是なり。ここに倭姫命、宇治の機殿の礒宮に坐し給へり。日神を祀奉ること倦きことなし。

 二十八年[戊戌]春二月、暴神多に起りて、東国安からず。冬十月[壬子]朔[癸丑]、日本武尊路を発ち、戊午、枉道して、伊勢神宮を拝み、仍ち倭姫命に辞りて曰さく、「今天皇の命を被りて、東に征き謀叛者を誅さむとす。故、辞る」と。是に倭姫命、草薙の剱を取りて日本武尊に授けて宣はく、「慎め、莫怠りそ」と。是の歳、日本武尊、初めて駿河に至り野中に入りて、野火の愁に遭ふ。王の佩かせる剱叢雲、自ら抽けて王の傍草を薙ぎ攘ふ。是に因り免れること得。故、其の剱を号けて草薙と曰ふなり。日本武尊、既に東虜を平らげ、尾張国に還り至りて、宮簀媛を納れ、淹く留りて月を踰え、剱を解きて宅に置く。徒行に胆吹山に登り、毒に中りて薨りぬ。其の草薙の剱は今 尾張国熱田社に在るなり。

【豊宇気大神】

 泊瀬朝倉宮大泊瀬稚武天皇(はつせのあさくらのみやの おほはつせわかたける のすめらみこと)の即位二十一年[丁巳]冬十月、倭姫命、夢に教へ覚し給はく、
「皇太神、吾一所耳坐さば、御饌も安く聞こし食さず、丹波国与佐の小見比治の魚井原に坐す道主の子八乎止女の斎奉る御饌都神止由居太神(みけつかみ とゆけのおほかみ)を、我が坐す国に欲し」と、誨へ覚し給ひき。
 時に大若子命を差し使ひ、朝廷に参り上らしめて、御夢の状を申させ給ひき。即ち天皇勅して、「汝、大若子、使とて罷り往きて、布理奉れ」と宣ひき。故、手置帆負・彦狭知二神の裔を率て、斎斧・斎鋤等を以ちて、始めて山材を採り 宝殿を構へ立て、明る年[戊午]秋七月七日、大佐々命を以ちて、丹波国余佐郡真井原よりして、止由気皇太神を迎へ奉り、度会の山田原の下つ磐根に大宮柱広敷き立て、高天原に千木高知りて鎮り定り座せと称へ、辞定め奉りて饗奉り、神賀の吉詞を白し賜へり。
 また、神宝を僉納む。兵器を卜へて神幣と為す。更に神地神戸を定めて、二所皇太神宮の朝大御饌・夕大御饌を、日別に斎敬に供進る。また天神の訓の随に、土師物忌を定置き、宇仁の波迩を取りて、天平瓮八十枚を造りて、敬ひて諸宮に祭る。
 また皇太神の第一摂神、荒魂多賀宮をば、豊受太神宮に副従ひ奉り給ふ者也。
 また勅宣に依り、大佐々命を以ちて二所太神宮大神主職に兼行ひ仕奉らしむ。
 また丹波道主命の子、始めて物忌を奉り、御飯を炊満て供進る、御炊物忌、是なり。
 また須佐乃乎命御玉、道主貴社を定む、粟御子神社に座すは是なり。
 また大若子命社を定む。大間社是なり、宇多大采祢奈命祖父・天見通命の社を定む、田辺氏神社是なり。
 惣に此の御宇に、摂社四十四前を崇祭る。爰に皇太神、重ねて託宣く、
「吾が祭を仕奉る時、先づ止由気太神宮を祭奉るべし。然後に我宮の祭事を勤仕ふべし。」故、則ち諸祭事は、此宮を以ちて先と為す也。亦、皇神託宣く、
「其、宮を造る制は、柱は則ち高く太く、板は則ち広く厚かれ。是、皇天の昌運、国家の洪啓ことは、宜しく助くべく神器の大造なり」。即ち皇天の厳命を承けて、日小宮の宝基を移し、伊勢両宮を造る。

【倭姫命薨去】

 天皇の即位二十三年[己未]二月、倭姫命、宮人及物部八十氏等を召し集ひて、宣はく、
「神主部・物忌等諸、聞け。吾久代、太神託して宣ひましましき。『心神は則ち天地の本基、身体は則ち五行の化生なり、肆に元を元とて元初に入り、本を本とて本心に任せよ。神は垂るるに祈躊を以ちて先と為す。冥は加ふるに正直を以ちて本と為せり。夫、尊天事地、崇神敬祖、則、不絶宗廟、経綸天業、また屏仏法息、神祇を再拝して奉れ。日月四洲を廻り、六合を照すと雖ど、須く正直の頂を照すべし』と、詔命ふこと明らけし。己専如在礼、朝廷を祈奉らば、天下泰平して、四民安然ならむ」と、布告訖りて、自ら尾上山峯に退りて石隠り坐しぬ。

 一書曰、倭姫皇女は垂仁天皇の第二女也。生て貌容甚麗、幼て聡明叡知、意は貞潔、神明に通じ給へり。故、皇御孫尊の杖代と為て皇太神を頂き奉る、美和の御諸宮より発ち給ひて、願ぎ給ふ国を求ぎ奉りき。
 垂仁天皇の二十五年[丙辰]春三月、伊勢の百船度会国の玉綴伊蘇国仁入り座す。即ち神服織社を建て、太神の御服を織らしむ、麻続機殿神服社、是なり〔此処より始在、伊雑宮と号ふ〕。
 然後、神の誨の随に神籬を造り建つ。丁巳年冬十月甲子、五十鈴川上の後に遷し奉る、清麗膏地を覓めて、和妙の機殿を五十鈴の川上の側に興し、倭姫命を居らしむ。時に天棚機姫神に太神の和妙御衣を織らしめ給へり。是の名を礒宮と号ふ。
 爰に巻向日代宮の御宇、日本建尊、比々羅木の八尋桙根を以ちて皇太神宮に献奉る。即ち倭姫皇女、彼の桙根は緋嚢に納めて、皇太神の貴財と為て、八尋機殿〔円方横殿、是也〕に隠伏て、皇太神の御霊と為て崇奉り祭る。天機姫神の裔 八千々姫命をして、毎年夏四月・秋九月に神服を織らしめ、以ちて神明に供ふ。故、神衣祭と曰ふ也。
 惣て此の御世に、神地神戸を定め、天神地祇を崇め祭る。年中の神態は蓋し是の時より始む。
 大泊瀬稚武天皇の御宇に至り、自ら退りて薨りぬ。時に倭姫皇女、大神主物忌等に託宣く、「天照太神は、日月と共にして寓内に照臨給へり。豊受太神は、天地と共にして、国家を守幸給へり。故、則ち天皇の御宇に、二柱霊尊、神風の地を訪ひ、重浪の国を尋ねて、天降り鎮坐し給へり。凡そ伊勢二所皇太神宮は、則ち伊弉諾・伊弉冉尊の崇めたまふ神、宗廟社稷の神、惟れ群神の宗、惟れ百王の祖なり。尊く二と無し。自余の諸神は、乃ち子、乃ち臣、孰か能へて抗べむや」と詔ふ。
 吾聞く、大日本国は神国なり、神明の加被に依りて、国家の安全を得、国家の尊崇に依りて、神明の霊威を増す、肆に祭神の礼、神主祝部を以ちて其の斎主と為、茲に因りて大若子命、弟若子命、同じく殿内に侍りて、善く防護と為、国家を祈奉れば、宝詐の隆、当に与天壌無窮矣。
 亦聞く、夫れ悉地は則ち心より生ず。意は則ち信心より顕る。神明利益を蒙る事は、信力の厚薄に依となり。天下四方国の人夫等に至るまで、斎敬ひ奉れ。

◇天照大神一座〔大日靈貴、オホヒルメノムチといふ〕【皇大神宮】
 御形八咫鏡坐〔謂八咫は八頭也〕

◇相殿神二座〔左、天児屋命、形弓座。右、太玉命、剱座〕
    一書曰、天手力男神、万幡豊秋津姫命。

◇荒祭宮一座〔皇太神宮荒魂、伊弉那伎大神の生める神、名は八十枉津日神なり〕
    一名、瀬織津比v神、是也、御形は鏡に座す。【別宮・荒祭宮】

◇伊奘諾尊〔左方、霊御形鏡坐〕【別宮・伊佐奈岐宮】

◇伊奘冉尊〔右方、霊御形鏡坐〕【別宮・伊佐奈弥宮】

◇月夜見命二座〔形馬乗男形也、一書曰はく、御形馬乗男形、著紫御衣、金僻帯大刀凧也〕【別宮・月読宮】

◇荒魂命〔右方〕、形鏡坐〔飛鳥宮御宇丙寅年十一月十一日、遷魚見神社也〕

◇滝原宮一座、霊御形鏡坐、水戸神、名速秋津日子神是也。【別宮・滝原宮】

◇並宮一座〔霊御形鏡、速秋津日子神妹、秋津比売神是也〕
此二神因河海持別而生神八柱。【別宮・瀧原並宮】

◇伊雑宮一座〔天牟羅雲命裔、天日別命子玉柱屋姫命是也、形鏡坐〕【別宮・伊雑宮】

◇大歳神一座〔国津神子、形石坐〕

◇興玉神〔無宝殿、衛神、猿田彦大神是也、一書曰、衛神孫大田命、
是土公氏遠祖神、五十鈴原地主神也。

◇滝祭神〔無宝殿、在下津底、水神也、一名沢女神、亦名美都波神〕

◇朝熊神社〔櫛玉命、霊石坐、保於止志神、石坐、桜大刀神、花木坐、
苔虫神、石坐、大山祇、石坐、朝熊水神、石坐。
宝鏡二面、日月所化白銅鏡是也〕

◇風神〔一名志那都比古神、広瀬、龍田同神也〕

◇酒殿〔天逆大刀、逆鉾、金鈴、蔵納之〕
◇御倉神、専女也、保食神是也
◇御戸開闢神、天手力男神、栲幡千々姫命
◇御門神、豊石窓 櫛石窓神
◇四至神四十四前、宮中祭之

◇豊受太神一座〔元丹波国与謝郡比冶山頂麻奈井原坐、御饌都神、
亦名倉稲魂是也、大自在天子、御霊形真経津鏡座、円鏡也、神代三面内也、
天御中主霊、御間城入彦五十瓊殖天皇即位三十九年七月七日天降坐〕【豊受大神宮】

◇相殿神三座〔大一座、天津彦々火瓊々杵尊、形鏡坐、前二座、天児屋命。
   太玉命、形笏座、宝玉座、大左方座、前二座右方座〕

◇多賀宮一座〔豊受荒魂也、伊弉那伎神所生神、名伊吹戸主、
亦名日神直日大直毘神是也、霊形鏡座〕【別宮・多賀宮】

◇土御祖神二座〔宇迦之御魂神、土乃御祖神、形鏡坐、宝瓶坐〕【別宮・土宮】

◇月読神 【別宮・月夜見宮】

◇調御倉神〔宇賀能美多麻神、三狐神、形尊形也、保食神是也〕
◇酒殿神〔豊宇賀能売命、缶坐、丹波竹野郡奈具社坐神是也、
天女善為醸酒、飲一杯苦万病除之、形石座也〕

◇風神〔八風神〕【別宮・風宮】

◇北御門社〔一名若雷神、加茂社同神也、形甕座〕

◇御井社〔天忍石長井水是也、七星羅烈〕

◇御門鳥居四至神等、二宮同前也

◇大国玉比売神二座〔大己貴命一座、佐々良比売命一座〕
 右大己貴神〔亦名大国主神、大物主、国作大己貴、葦原醜男、
八千戈神、大国玉、顕国玉神〕


日本紀に曰はく、 神産日神の御子少名毘古那神。大国主神と相並て此国を作堅めて後は、其の少名毘古那神は、常世国に度る也。神代下に云ふ、高皇産霊尊、大物主神に勅して「汝若し国神を以ちて妻と為せば、猶、汝を疏心有りと謂はむ。故今、吾女三穂津姫を以ちて汝に配せ妻と為む。宜しく八十万神を領て、永く皇孫の為に護奉れ。」

裏書勘注に曰はく、 風土記に曰はく、夫れ度会郡と号くるは、畝傍檻原宮御宇に神倭磐余彦天皇、天日別命に詔して、国を覓ぐ時、度会の賀利佐嶺に火気発起りて日別命、親云曰、「此小佐居歟」、礼使に迷ふ命を見て、使者還来て申曰はく、「大国玉神有り、賀利佐に到る」、時に大国玉神、使を遣り、天日別命を迎奉り、因て其橋を造らしむ。造畢るに堪はざるに時到る。今、梓弓を以ちて橋と為て度る。爰に大国玉神、弥豆佐々良比売命を資け参来りて、土橋郷岡本村に迎相ひて、天日別命に申す「歎地出之、参会ふ日刀、それより度り会ふ」。因て名と為す。

一書曰はく、 神倭磐余彦天皇の御宇に、悪神いふかりて、人民亡ふ、火気発起て、天下安らざるに、日別命を以ちて、使に遺り、大己貴神復命て、兵を発て 西宮より此の東洲に従る時、大国玉神〔大己貴命〕を崇祭る。復命を天皇大く歓びて詔曰はく、「宜しく伊勢国を取りて、即ち天日別命の村地と為せ」。此世火気に堪ず、伊勢の多賀佐山嶺に、石宅を造り住居て、天日別命、荒振神を殺戮し不遵を罰ち、堺の山川に地邑を定むる者也。天日別命子を以ちて崇祭る。是れ度会国の御社也、彦国見賀岐建与束命、是也。

◇神服機殿。
倭姫命、飯野高丘宮に入坐して、機屋を作り、大神之御服を織らしめ、高宮よりして礒宮に入坐す。因て其地に社を立て名は服織社と曰ふ。麻続郷と号ふは、郡の北に神在り。此、大宮の神荒衣の衣を奉る、神麻績の氏人等、此村別て居。因て名と為也。
垂仁天皇二十二年春三月、飯野高兵宮に坐す。二十五年春三月、飯野高宮より、伊蘇宮に遷り座す。二十六年冬十月、天照太神・草薙剱、度会五十鈴川上に鎮座す、同じく斎宮を宇治県五十鈴川上大宮辺に興て、倭姫命に居らしむ。即ち八尋殿を立て大神御衣を織らしむ。宇治機殿と号ふは是也〔一名礒宮〕。磐余甕粟宮の三年、本の服織社に遷り、大神の御衣を織らしむ。難波長柄豊崎宮の御宇の丙午年、竹連・礒部直二氏、此郡を建つ。


太神宮本紀下
伊弉諾伊弉冉尊は、天地万物之霊神。天照皇太神宮は、惟れ天神地祇の最貴者也。我国家は神物霊しき蹤、今皆事触れて効有り、虚と謂ふべからず。時に大神主飛鳥孫御気、之を書写。 爰に神護慶雲二年二月七日、祢宜五月麻呂、之を撰集。
蓋聞く、垂仁天皇女倭姫内親王、神託の随に大少神社を定め、或神代神宝奉崇神躰、或以変化之霊物為神形、専致其精明之徳云云。

本云、大治四年十二月二十七日叩書写之畢。  外権祢宜度会神主雑晴 判
又云、丁卯歳五月、書写之。 豊受太神宮祢宜正四位上度会神主章尚 判
時に応永二十五年戊仲夏端午後一日、書写畢、校点了。
本云、時応永二十七年庚子六月六日、書写畢、校点了。
此本、山田岩淵英禅秘蔵云云、雖然依別段之懇志、若狭国安賀庄一旦居住之、令借越写了。
希代之云重宝、云出所、更以無抗此者也。


 岩波日本思想体系「中世神道論」巻末の原文をOCR処理し、それを独自に読み下し、更に忌言葉についての直前までを口訳文にした。口訳にあたっては平易さよりも古語を生かすことを心がけた。
 タイトル画像は矢沢弦月(昭和27年没)作の倭姫命像で、神宮徴古館蔵。

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