神功皇后(江森天寿)

●応神天皇

 第十五代応神天皇は三歳のときに磐余の若桜宮で皇太子となられた。成人されるころ、臣下の武内宿禰を伴って、若狭国の気比の神を参詣された。若狭から戻られると、祝の宴が用意されてあり、そこで母君の神功皇后は御神酒をすすめ、御歌を賜はった。
  ○この神酒(みき)は吾が神酒ならず。
   酒の司(くしのかみ)、常世にいます 石立たす 少御神の
   豊祷ぎ祷ぎもとほし、神祷ぎ祷ぎくるほし、
   祭り来し神酒ぞ。乾さず食せ。ささ
 応神天皇は、即位されると、軽島の明宮(あきみや)で天の下を知らしめた。
 天皇が近江国に行幸されたとき、宇遅野(うぢの)の岡で国見(くにみ)をされ、葛野(かづの)の地を望み見て、国の繁栄ぶりに満足げに御歌を詠まれた。
  ○千葉の 葛野を見れば、百千足(ももちだ)る 家庭(やには)も見ゆ。国の()も見ゆ  応神天皇

●仁徳天皇

 第十六代仁徳天皇は、難波(なには)の宮で天の下を知らしめた。
 天皇が国見(くにみ)をされたとき、山の上から四方の国を見渡されると、煙の立ってゐる家がどこにもなく、国民の生活を心配されておっしゃった。
「国の中に煙が立ってをらないのは、国民が皆貧しいからであらう。ならば今より三年の間は、民の課税と賦役は免除とせよ。」
 それ以来、天皇の大殿は、壊れたところがあっても修理もせず、屋根は雨漏りがして、土器で雨を受けるものだから、天皇は雨のたびに漏らない場所に避難して暮らすありさまだった。三年後に国見をされたとき、国は煙に満ちてゐた。民は元通り豊かになったので、課税と賦役は元に戻された。かうして百姓(おほみたから)は栄え、使役を苦に思ふこともなくなった。その御世を称へて、「聖帝の世」といふ。後の世の人の歌。
  ○高き屋にのぼりて見れば、天の下 四方にけぶりて、今ぞ富みぬる  藤原時平

●黒姫(磐姫皇后の嫉妬)

  ○秋の田の穂の上に()らふ朝霞、何処方(いづへ)の方に、わが恋()まむ  磐姫皇后
 この情熱的な恋の歌を詠んだ人は、仁徳天皇のお后様の磐姫(いはのひめ)である。このお后様はたいへん嫉妬深いお人だったといふ。
 吉備の国の海部直(あまべのあたひ)の娘に黒姫(くろひめ)といふ評判の美人がゐた。それを耳にした天皇は、姫を都へ呼ぶことにした。ところが黒姫は、都へ来た早々から、お后様にいぢめられ続けたので、とうとう国へ帰ってしまった。天皇は、港を出てゆく黒姫の船を見送りながら、名残り惜しんで御歌を詠まれた。
  ○沖方(おきへ)には 小船(をぶね)連ららく、くろざやの まさづ子吾妹(わぎも)、国へ下らす 
 この御歌を聞いたお后様は、ひどくお怒りになり、臣下に命じて船を追ひかけ、黒姫を船から下ろして、徒歩で国へ帰らせたといふ。
 天皇は、その後も黒姫を忘れることができず、お后様には「淡路島を見に行く」とおっしゃって、船で出掛けた。淡路島に少し留まり、内緒で吉備の国へ向った。
 天皇はが吉備の国に着くと、黒姫が出迎へ、やうやく再会することができた。黒姫は、歓迎の宴の献立に、青菜を採みに野に出た。すると、天皇も付き添ってお出かけになり、御歌をお詠みになった。
  ○山縣に 蒔ける青菜も、吉備人と 共にし摘めば、楽しくもあるか
 しばらくの滞在ののち、天皇がお帰りになるとき、黒姫は別れを惜しんで歌ふ。
  ○倭方(やまとへ)に 西風(にし)吹き上げて、雲離れ 退()き居りとも、我忘れめや  黒姫
  ○倭方に 往くは誰が(つま)隠水(こもりづ)の 下よ()へつつ、往くは誰が夫  黒姫

●履中天皇の難波宮脱出

 第十七代履中(りちゅう)天皇の宮が、まだ難波にあったときのことである。
 大嘗(おほにへ)の祭のあとの宴で、天皇は大御酒に酔はれ、ぐっすりお眠りになってしまはれた。この時を狙ってゐた異母兄の墨江中王(すみのえのなかつきみ)は、反逆を企て、大殿(おほどの)に火を著けた。都はたちまちのうちに大火となった。
 阿知直(あちのあたひ)は、熟睡されたままの天皇を救出して御馬に乗せ、大和へ向って脱出した。多遅比野(たぢひの)に到ったとき、ちょうどお目覚めになった天皇は、事情を聞いてびっくりされて、御歌を詠まれた。
  ○多遅比野に 寝むと知りせば、立薦(たつごも)も 持ちて来ましもの。寝むと知りせば
 埴生坂(はにふさか)で難波の宮を望んで見ると、火はなほ燃え盛ってゐた。それをご覧になって天皇は御歌を詠まれた。
  ○埴生坂。我が立ち見れば、かぎろひの 燃ゆる家群(いへむら)。妻が家のあたり
 大坂の山口に到ったとき、一人の少女がゐた。少女は、「大勢の兵がこの山に潜んでゐます、遠回りをなさって、当麻(たぎま)の道をお越えなさいませ」と告げた。天皇は少女をねぎらって御歌を賜った。
  ○大坂に 逢ふや少女(をとめ)を。道問へば (ただ)には()らず。当麻道(たぎまぢ)を告る
 かうして天皇は、石上(いそのかみ)神宮へ向かった。これより磐余(いはれ)若桜(わかさくら)の宮を定められた。

●軽太子

 第十九代允恭(いんぎょう)天皇は、遠飛鳥宮(とほつあすかのみや)で、天の下を治らしめた。
 天皇が崩御されて後、木梨之軽太子(きなしのかるのみこ)は、皇太子として定められてゐたにもかかはらず、なかなか即位することができなかった。軽太子が同母妹の軽大郎女(かるのおほいらつめ)に恋の歌を送ってゐたことが問題となったのである。
  ○笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は、人は()ゆとも
   (うる)はしと さ寝しさ寝てば、刈薦の 乱れば乱れ。さ寝しさ寝てば
 この歌が原因で、多くの臣下は、太子に背いて、穴穂(あなほ)皇子のもとについた。不穏な空気が流れ、軽太子は大前小前宿禰(おほまへをまへのすくね)の大臣の家に立て籠り、ここに両陣営は武装を開始することとなった。軽太子の矢は、銅で作ったいはゆる「軽箭(かるや)」といふ。一方、穴穂皇子の矢は、今時の鉄で作ったもので、「穴穂箭(あなほや)」といふ。
 穴穂皇子の軍が、大前小前宿禰の家を取り囲んだとき、氷雨が降り出した。穴穂皇子が歌を詠まれた。
  ○大前 小前宿禰が 金門蔭(かなとかげ)、かく寄り来ね。雨立ち止めむ  穴穂皇子
 大前小前宿禰は、手を挙げ膝を打ち、舞ひ奏で、歌ひながら出てきた。
  ○宮人(みやびと)の 脚結(あゆひ)子鈴(こすず) 落ちにきと、宮人とよむ。里人もゆめ  大前小前宿禰
 宿禰は、「天皇の皇子である太子に弓を引いてはならぬ。そんなことをしたら後の世の笑ひものだ。自分が太子を説得して、お引き渡ししよう」といった。そこで穴穂皇子の軍は、武装を解除して引き上げた。
 やがて捕はれの身となった太子が歌ふ。
  ○天飛(あまだ)む 軽嬢子(をとめ)。したたにも 寄り寝てとほれ。軽嬢子ども  軽太子
軽太子は、伊予の国に、流されることになった。そのときの歌。
  ○天飛(あまと)ぶ 鳥も使ひぞ。(たづ)が音の 聞えむ時は、我が名問はさね  軽太子
軽大郎女が伊予に向ふ太子に献った歌。
  ○夏草の あひねの浜の 蛎貝(かきがひ)に、足踏ますな。あかして通れ  軽大郎女
郎女は、太子を恋ひ慕ふあまり、伊予行きを決心する。
  ○君が往き け長くなりぬ。山たづの 迎へを行かむ。待つには待たじ  軽大郎女
伊予の国で再会したときの太子の歌。
  ○隠国(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山の
   大峡(おほを)には (はた)張り立て、さ小峡(をを)には 幡張り立て、
   大峡にし なかさだめる 思ひ妻あはれ ……   軽太子
 こののち二人は自殺したといふ。二人は母を同じくする兄妹であった。この時代より以前には、親子の結婚のみを禁じ、兄妹までは許されたといふ。しかし時代が進むと、異母兄妹ならよいが、同母の兄妹の結婚は許されないことになった。この物語は、世の慣習の変化の境目の時代を偲んで語られたものとされる。

●引田部の赤猪子

 第二十一代雄略天皇は、長谷(はつせ)の朝倉宮で、天の下を治らしめた。その御代のことである。
 天皇が三輪の川をお行きになると、川で洗濯をしてゐる美しい童女(をとめ)がゐた。童女に名を問へば「引田部(ひけたべ)赤猪子(あかゐこ)」と答へた。天皇は童女に結婚の約束をしただけで、その日は宮にお帰りになった。ところが天皇は、そのことをうっかり忘れてしまはれた。
 数十年の年月が過ぎ、ある日のこと、天皇のもとに見知らぬ老婆が山のやうな献上品を携へてあがった。話を聞くと、あのときの童女だといふ。天皇の迎への知らせをずっと待ち続けて、赤猪子は八十歳の老婆になってゐたのだ。
 天皇は初めて結婚の約束を忘れてゐたことに気づき、赤猪子の老いた姿を悲しみつつも、若やいだ頃の気持ちのまま一生を過ごした赤猪子をいとほしく思はれた。今改めて妻に迎へたいとも思はれたが、老婆ゆゑ、かはりに御歌を賜はった。
  ○御諸(みもろ)の いつ橿(かし)がもと。いつ橿がもと。ゆゆしきかも。橿原童女(をとめ)  雄略天皇
  ○引田の 若栗栖原(わかくるすはら)。若くへに 率寝(ゐね)てましもの。老いにけるかも  雄略天皇
 赤猪子の泣く涙は、丹摺(にずり)の袖を濡らし、答へて歌ふ。
  ○御諸に つくや玉垣。つき余し ()にかも()らむ。神の宮人  赤猪子
  ○日下江(くさかえ)の 入江の(はちす)。花蓮。身の盛り人、(とも)しきろかも  赤猪子
 天皇は老女に多くの下賜品を与へたといふ。「この四歌は志都歌(しづうた)なり」と古事記にあるが、志都とは(しづ)の意味で、鎮魂歌のこと。水辺に貴い魂を寄せる変若返(をちかへ)りの呪歌のことである。八十年後の老婆に向かひ合ってゐる天皇の若々しさに注意されたい。

●吉野の乙女の舞

 雄略天皇が吉野の行宮(かりみや)においでになったとき、吉野川の浜に美しい乙女がゐた。乙女と一夜を過ごして、天皇は宮へお還りになった。
 ふたたび吉野へおいでになったとき、乙女と出逢った場所に大御呉床(あぐらゐ)を建てさせ、その上で夕べに琴を奏でられた。すると前方の山から雲が湧きあがり、乙女が現はれて舞を舞ひ始めた。乙女の姿は、天皇の御目にだけとまって、他の者には見えなかったといふ。乙女の舞を天皇はお褒めになり、御歌をお詠みになった。
  ○あぐらゐの神の御手もち 弾く琴に、舞する乙女。常世にもがも  雄略天皇
これと似た話は天武天皇の御代にもあり、五節(ごせち)の舞の起源とされる。

●置目老媼

 第二十二代清寧(せいねい)天皇は、磐余(いはれ)甕栗宮(みかくりのみや)で、天の下を治らしめした。天皇にはお后様も皇子も無かったので、御名代(みなしろ)として白髪部(しらかみべ)を定められた。白髪部は、のちに各地で白髪神社を祭った。天皇が崩御された後は、履中天皇の孫の意祁(おけ)王、袁祁(をけ)王の兄弟が、播磨国から呼ばれた。二人の皇子は、しばらくのあひだ即位を譲りあってゐたが、弟の袁祁(をけ)王が先に即位されて、顕宗(けんそう)天皇となった。
 第二十三代顕宗天皇は、近飛鳥宮(ちかつあすかのみや)で天の下を治らしめした。
 あるとき天皇は、父の市辺忍歯(いちべのおしは)王の墓の所在がわからなくなってゐることに気づき、探させることにした。すると近江国から老婆が現れ、埋めた場所とその歯の特徴をよく憶えてゐるといふ。父王の歯は、三枝(さいぐさ)のやうな奥歯だったといふ。
 近江国の蚊屋野で、その土を掘らせると、話の通りの御骨が出てきた。そこで、その東の山に御陵を作って葬った。(のち御骨は大和へ遷された。)
 天皇は宮へ戻ると、老婆を召してその功をお誉めになり、置目老媼(おきめのおうな)といふ名を賜った。宮の近くに老媼の家を建てて与へ、毎日のやうに宮へ呼んでお逢ひになった。(さなき)を大殿の戸に懸けて、老媼を呼びたいときはいつも、この鐸を引き鳴らして、御歌をお詠みになった。
  ○浅茅原 小谷を過ぎて、百伝(ももづた)ふ (さなき)響くも。置目来らしも  顕宗天皇
 年月がたち、置目老媼は老いも進み、故郷へ帰りたいと申し出た。天皇もこれをお許しになり、旅立つ老媼へ、お見送りの御歌を賜った。
  ○置目もや。近江の置目。明日よりは み山(こも)りて 見えずかもあらむ  顕宗天皇
 天皇の崩御ののちは、兄の仁賢天皇が即位された。