神話の森ホーム

旧掲示板過去ログ平成14〜15年


古代の結婚観 管理人  2003/10/26 (日) 00:17 No.145

 奈良の正倉院に保存されてゐた古代の戸籍を、コンピュータ処理で分析した岡山大学の今津助教授の研究が25日の夕刊に紹介されてゐた。
 夫婦の年齢差が、20代では3〜4歳で、年代があがるとともに差が開いて60代では9・5歳の差になるといふ。これは、死別によって再婚した夫婦が多いために、高年齢の夫婦では年の差が開くのだとする説明が、妥当だといふ。これによって、ともすれば「古代人の大らかな性、自由な結婚観」などといはれた古代の結婚観の見直しが迫られるといふ。その通りだと思ふ。
 60代〜70代の男女では、夫のゐない女性120人に対し、妻のゐない男性10人だともいふ。
 しかし新聞記者のいふ「男性は高齢になっても伴侶を持つことにこだわった」「男性が再婚の際、生殖能力の重視などからできるだけ若い女性を選ぶ傾向があった」といふ見かたは少々問題がある。
 早死にをする男性のほうが著しく多かったのであるから、同年代の夫婦しか認めないなら若い女性が大量に独り身となってしまふ。伴侶を失った男女どうしが、若い順に再婚しただけだと見るべきである。その結果は、女性人口が多い社会であり、母系制社会とはかくして出来上ったものかとも思ふ。また若くして死んだ者への弔ひが重要な意味をもつ社会だったのだらう。
 コンピュータを使った分析は、これまで行き詰ってゐた研究分野の活路を開き得るものとの、京都大学教授のコメントも紹介されてゐた。


大和し遥か 二岡奈々  2003/11/29 (土) 01:44 No.142

管理人様、こんにちは。また、お邪魔しました。
空想ですから、軽く読み流して下さい。

太占という言葉があります。
この「まに」について、私なりに調べてみましたが、意味が分かりません。
「まじなふ(呪ふ)」の「まじ」に似ています。
認められる音の相通現象としては、n←→t(d)はありますが、
「まに=まじ」は難しいのですが、
「ぢ」と「じ」の混同と考えて、想像を廻らしてみました。

 まぢなう

おぼろげな記憶ですが、
待ち針の「まち」は、太占と関係あると聞いた事があります。
針の方なのか、裂け目の方なのか、忘れましたが...

古事記などには、人名の一部分として、
「まぢ」「まち」に近い音

 俣 待 持 牟遲 母遲 麻遲 眞手

など、沢山出てきます。
何か関係があるのでは、なんて思っています。

 太占

そのルーツは、獲物として捕えた動物の骨に残った『矢』の跡を占ったことなのでは...
その骨は、言うなれば『まと』です。
これも「まち」に似ています。

空想に空想を重ねてしまいました。
その行き着く先は...
『 ・  』


Re: 大和し遥か 管理人  2003/11/30 (日) 11:52 No.143

新掲示板を御覧ください。
二つの掲示板の区別の説明をまだ明示していないのですが、この件のような内容はなるべく新掲示板に書込みいただければと思ひます。
以下11月30日(日)の新掲示板より
「太占(ふとまに)に占ふ」といふ句は古典に頻出する定型句のようにも思へ、「ふとまに」は数多くある占ひ法のうちの一種とする通説にはすっきりしないところもあり、少なくとも、言葉の意味解析を行ふなら逆にそれ自身が通説を証明するものでなければならないと思ひます。「まに」と「まじなひ」の「まじ」が語源的に同源とするのは、国語の音韻でn音と「じ」がよく転訛する例を見ればわかります。即ち、土師、刀自、案じ・感じ(サ変)、源氏(平氏に対する)。マチ針のマチは和裁のマチ(当て布)をとめる針のことなのでせう。


ありがとうございました 二岡奈々  2003/11/27 (木) 01:59 No.141


> 「ゐか」と「いく(生)」では「ゐ←→い」の音が異なりますので、
> 混同しないほうが良いと思はれます。

「坐す」が「います」なので、「ゐ←→い」を混同していました。
こんな私の質問に、丁寧に お答え下さり、ありがとうございました。


「座摩」について 二岡奈々  2003/11/23 (日) 02:25 No.139

はじめまして。
延喜式祝詞などの資料を利用させて頂きました。
これからも、時々 お邪魔させて頂きます。

「座摩」について

一般的には、
「座摩」は「い・かすり」であると聞いていますが、
「摩る」の読みには、
「かする」と「する」がありますので、

「いか・すり」の可能性もあるのでは、と思っています。

また、

「生」井・栄井・津長井・阿須波・婆比支
御巫・同門・座摩巫・「生」嶋巫奉斎神祭

等から、「いか・すり」なのでは、とも考えています。
「座摩」の意味も知らない人間の考えですが、
ご意見を お聞かせ頂ければ幸いです。

「すり」は「しろ・つり・とり・たる・たらし」等で、
「しま・すま・つま・つみ・つま・たま・たまし?」
等と対になるのでは?
少し無理のある想像ですが...


Re: 「座摩」について 管理人  2003/11/26 (水) 12:52 No.140

書込みありがたうございます。
「座摩について」は
新掲示板 http://8026.teacup.com/elm/bbs
に書き込みましたので、そちらを見ていただければ幸甚です。
以下新掲示板:11月26日(水)より
延喜式祝詞の「祈年祭祝詞」などで、四つの場所にゐる神職の従事する内容などが述べられてゐます。すなはち、大御巫(おほみかむなぎ)、座摩(ゐかすり)の御巫(みかむなぎ)、御門(みかど)の御巫、生嶋(いくしま)の御巫です。
そのうち最上位の大御巫のほかの、座摩、御門、生嶋は、場所を示す言葉と思ひます。
大御巫は神殿の中にゐるものと思はれますが、座摩は神殿の外の庭の意味、御門は(皇居の)門の意味、生嶋は門の外で広く国土全般をも意味するのでせう。
「ゐかすり」の「座摩」といふ表記は、神聖な庭の上を這って歩くような姿から来たような印象ですが、「ゐか・しり」の転で「居処・領り」の意味、つまり居所を領有する者の意味と説明されることが多く、これで良いのではと思ひます。
「ゐか」と「いく(生)」では「ゐ←→い」の音が異なりますので、混同しないほうが良いと思はれます。


おはようございます まつもと  2003/09/14 (日) 06:29 No.133

平成祭データのCDROMはもう手に入らないのでしょうか?
欲しいのですが・・・。


Re: おはようございます 管理人  2003/09/14 (日) 14:15 No.134

> 平成祭データのCDROMはもう手に入らないのでしょうか?
>
発行元の神社本庁へ電話などでお問合せください。
どんな研究をしてゐるか、またその研究のために必要な資料であることを説明し、在庫はあると思ひますが、2万円程度で頒けていただけるといふ話です。


折口信夫没後50年 管理人  2003/08/28 (木) 16:23 No.132

9月3日は折口信夫の50回めの命日です。
詳細は石川県羽咋市の広報を御覧ください(pdfで3ページ)
http://www.city.hakui.ishikawa.jp/topjp/kousitu/koho/pdf/2003/08/hakui03-05.pdf


トリ と サカ と ヤ 玄松子  2002/12/08 (日) 14:00 No.104

伊賀の鳥坂神社について、ちょっと調べてみましたが、近江の三津から勝手明神(愛鬘命)が勧請されたとありました。
三津には勝鳥神社というのがあり、天稚彦命を祀っています。
勝鳥(鳥が勝った?)、天稚彦命の伝承にも鳥が出てきますし、それが原因で死んでしまいます。
鳥と坂。サカは、逆かも。返し矢でしたか。天界と地上の境界を、鳥が行き来し、矢が往復する伝承でしたね。

「妄想」には十分ですが、「論証」には不十分な素材ですが。


Re: トリ と サカ と ヤ 管理人  2002/12/08 (日) 22:34 No.105

 天稚彦は、葬儀のときの喪屋が飛んで行った先が美濃国だといふのが古事記の話ですが、近江の勝鳥神社では、出雲から東国平定に出掛けて美濃で亡くなって美濃で葬られ、後で近江にも祭ったとあり、独自の神話になってゐて面白いですね。美濃にも勝手神社があります。
 愛鬘命はアイカヅラと読むのが普通でせうが、某CDの先頭4文字の読み方で「ことつげ…」「つけのり…」ともあります。全体の読み方ではないのですが、何か言葉告げる神様のようです。引導を渡す、または代理で泣く鳴女のようで、「鳥」にちなむ神社で祀られたものと想像します。
 伊賀の鳥坂神社の祭神にも愛鬘命があり、この場合、坂はあの世との境といふか、何か古い時代の葬地であったような印象ですが……。あるいは「鳥越」の意味で、旅人を導く鳥なのかもしれませんし。
 「カツ手」とは何かの神事の役割の意味かもしれず、それが忘れられて、闘鶏で吉凶を占ったことから「勝鳥」となった、といふのはただの想像ですが。
 該当神社の史料があまりなく、感想だけ述べました。


Re^2: トリ サカ  管理人  2002/12/09 (月) 08:34 No.106

当地は初雪の朝です。
<「鳥坂」、地名の場合>
「陸前栗原郡金田村畠の鶏坂といふ地には、昔金売吉次黄金をもって二つの鶏を作りこれを金山沢の東西に埋め以て山神を祭りたりと申し候」(柳田国男『石神問答 三〇』)
周囲に「金」の地名があるか、地形はどうか、といったところです。


磐境、磐座、神籬 管理人  2002/12/03 (火) 13:31 No.102

<一般解説>
 磐座(いはくら)、磐境(いはさか)は古代の特別な神域を意味する言葉ですが、必ずしも岩石のものを意味するものではなく、イハは、堅固なもの、イハフ(祝ふ、斎ふ)ものの意味と見たほうが良いと思ひます。神籬(ひもろぎ)も特別な森や神木をいひ、後世には「山が御神体である」といはれる元のもの見られます。神籬、磐座、磐境は、時を定めた祭祀空間を引き起こすためのものですが、祭での神の依代(よりしろ)となるともいはれます。地鎮祭などの社殿以外での臨時の祭壇の中央に榊を立て、これを神籬ともします。

<地名のクラとサカ>
 地名のクラとサカの問題は面白い話題で、次のところから始まったようです。
http://www.genbu.net/data/mutu/nagakura_title.htm
 福島県では「○倉」「○坂」の両方の地名が多いのですが、隣の新潟県へ行くと、「○坂」がめっきり少なく「○倉」ばかりになります。何故なんでせうね。


Re: クラ 済んだお話? 神奈備  2002/12/02 (月) 22:12 No.99

磐境と磐座ですが、人工の配置か天然の配置かと言うのが通説ですが、磐境とは磐座を取り囲む為に置かれた磐の境界であって瑞垣のようなものを指しているように感じますが、それでよろしいのでしょうか。
もしそうしますと、磐座から磐境、クラからサカへの変化と言う概念はなりたたず、中央の座に対する周辺の境と言う一種対応関係にあるような概念ではないでしょうか。


Re^2: クラ どうも済みません 管理人  2002/12/03 (火) 01:59 No.100

 [93]玄松子さんの「長坂は、もとは永倉」は「磐境〜磐座」を念頭においたものだったようで、気がつかなくて済みません。

 磐境と磐座については、似たようなもの位にしか思ってませんでした。
 調べてみると、「大三輪三社鎮座次第」(鎌倉時代のもので群書類従にあり)で既に同じものと見なしてゐると、臨川書店「神道大辞典」にあります。
 しかし日本書紀の高御産霊尊の言葉では、神籬と磐境が一体のもののようにあり、折口信夫は、神籬を主に磐境はそれを囲むものなのか、それとも神籬と磐境は同じものなのか、両方の見方に触れる部分がありますが、明言などはしてゐませんし、磐座には触れません。
 「磐座を囲む磐境」とは「神籬を囲む磐境」と同じ意味の表現と思ひますが、神籬も神の領域との境に立つもののはずで、神籬と磐境は同じものの別表現といふ見方も捨てきれないのではと思ひます。図式化は解りやすくなりますが、それによって一つの重要な概念が捨てられてはまづいと思ふのですが。

 磐座と磐境は同じ意味で使はれることもありますが、地名のクラとサカも転用があり得たとするには、複数の事例があれば蓋然性が高くなるとは思ひます。

★追記★クラは川・峰・道などの二股の形状の地を意味することは神奈備掲示板でその後指摘しました。今でもマタグラなどと使ひ陰部の意味もあります。おそらく戦前までの人にとっては自明のことでしたが学術書などに書かれることがなかったため戦後難しく考へすぎたきらひがあります


Re^2: クラ 済んだお話? 単なる語呂合わせ的 玄松子  2002/12/03 (火) 08:03 No.101

> 磐境と磐座ですが、人工の配置か天然の配置かと言うのが通説ですが、

境(サカ)=人工、座(クラ)=天然。とすると、後世、天然の座が失われ、人工の境になった場所とみることも。

勿論、坂の意味だったクラが、わかりやすいサカになったということも。

永倉から長坂へという説明があっさりしていたので、一般的なことなのかと思って(僕は知らない)、質問させていただきました。


ニワトリ 玄松子  2002/12/02 (月) 12:08 No.97

「ニワタリ神社」面白いですね。

「水渡」としての渡りに関する神と、「庭津火」としての竃神、それに、鶏が三重奏している印象を持ちました。
兵庫の西宮神社境内に庭津火神社があり、祭神は奥津彦神・姫神で、竃神ですね。台所に掲げる鳥の絵と関連しそうですが。


庭の神 管理人  2002/12/02 (月) 15:46 No.98

 おほめにあづかり恐縮です。「鶏の神(ニワタリ神社)」
http://nire.main.jp/rouman/ubu/niwatari.htm
が書きあがるときに、会津の鬼渡神社の祭神の阿須波神といふ難解な神様について、庭中の神の意味だったと気づきましたが、その先は触れませんでした。鋭い御指摘の通りに展開して行けたら良いのですが。
 「庭」は近世以降は労働場の意味もありますが、「庭」のつく神社名に、市庭神社、角力庭神社、楽庭神社などとある通り、市や相撲や音楽などのハレの場が原義のように思へます。西宮神社(えびす様、えべっさん)境内の庭津火神社は、市の神様の庭に関るもののように思へます。岐阜県土岐市の八幡神社境内にも庭津日神社(祭神同じ)があり、これもそんな関係なのかどうか。

 信濃の長倉は、碓氷峠の先の最初の古代の駅であり、牧であったと。白河郡の永倉にも牧があったかもしれませんが、……地名だけ研究しても良い結果は期待できないので、鞍作止利(くらつくりのとり)についてでも調べてみますか。


クラ 玄松子  2002/12/01 (日) 22:46 No.93

お久しぶりです。クラについての雑談。
福島県に永倉神社があり、鎮座地は長坂。
長坂は、もとは永倉で、長畔の転化という説があるそうです。
畔はアゼクラのことでしょうが、クラからサカへの変化とは、どういうことだと思われます?


Re: クラ〜長倉 管理人  2002/12/02 (月) 01:33 No.94

 畔の意味で「くろ」といふ語がありますので、地方によってはクラともなり得ます。クロは少し盛り上がった土地、草木がこんもりしてゐる所をいふともあります。川水にナガされてそのような土地が残ったのではないでせうか。現地を見たわけではありませんが。
 クラ→サカへの変化については、最初に名づけられて以降、道路交通が発達して坂道としての意識が強くなったためかなあ、と単純に想像しますが。
 ただ「長倉は長畔の転化」とは後世の説にすぎないようですね。西白河郡西郷村の長坂の近くには、鶴生、羽太と、鳥の聖地らしき名もありますし(羽太はアイヌ系かも)、「長」は「時」に密接な語でもありますが、ちょっとここでは話がまとまりません。
 長野県軽井沢の旧地名の長倉にも、同じく式内社の長倉神社があるようですが、地形が類似してゐますかどうか。


Re^2: クラ〜長倉 玄松子  2002/12/02 (月) 11:56 No.96

>  長野県軽井沢の旧地名の長倉にも、同じく式内社の長倉神社があるようですが、地形が類似してゐますかどうか。

「地形」を、どのスケールで見るかによりますが、境内周辺に限定すると、あまり似た地形ではありません。
ただ、もっと大きなスケールで見ると、永倉(福島)は、白河を北へ越えた場所。長倉(長野)は、碓氷峠を西へ越えた場所となりますが。
ちなみに長倉は長倉牧として延喜式に載る地ですね。


忠臣蔵 管理人  2002/12/01 (日) 21:25 No.92

 この12月14日は赤穂浪士の討入り300周年とか。忠臣蔵を見ることは、日本人にとって年末の欠かせぬ行事であり、これがないと新年が来ないような大事な年中行事であるかのようです。
 年の瀬や 水の流れと人の身は あした待たるるその宝船
 ちょうど太陽の力の一番弱まる時期でもあり、太陽の王の復活の儀式であると言ったのは丸谷才一といふ人でした。あの本は中央公論社の文庫本にもなってゐます。


牧と武士 神奈備  2002/09/23 (月) 21:13 No.71

また引用ですが、『馬・船・常民』によれば、摂関家で罪に問われた人は「厩に下し」厩の番人に監視をさせたそうです。牢獄の役割があった。厩の番人は刑史の役割も持っており、武力集団であったそうです。
平将門は戦に負けると船で逃げたそうで、東国の武士団は馬と船とを巧みに使い分けていたとか。


Re: 牧と武士 管理人  2002/09/24 (火) 17:27 No.73

 東北地方などでは人と馬は常に同じ屋根の下に住んだのですが、
> 摂関家で罪に問われた人は「厩に下し」厩の番人に監視をさせたそうです。
 摂関家は格式の高い家ですが、家の内部での罪なのでせうか。もし若いお姫さまが同情されるべき罪(恋愛上の罪など)で厩に住んだとして、そのまま馬に乗って茨城県や東北地方に逃げて行けば、蚕の神になって現はれることになります。茨城県や東北地方の蚕の神は、そのような姿で現はれたといふ伝説があります。ただし摂関家のお姫様については単なる空想の話です。
 『馬・船・常民』は講談社学術文庫版を、発注したところです。


Re^2: 牧と武士 玄松子  2002/09/28 (土) 23:30 No.74

> 茨城県や東北地方の蚕の神は、そのような姿で現はれたといふ伝説があります。

馬と蚕、そして娘の神話モチーフは、中国に多いようです。
教養文庫『中国神話伝説集』にも、馬頭娘の絵が載っています。
話の筋は、戦地に行った父を恋しく思った娘が、飼っていた馬に、父を連れ帰ったら嫁になると約束。馬は父を連れ帰りますが、約束は守られず殺されて皮を剥がれます。その馬の皮が娘を包んで飛び去り、発見された時には娘は蚕になっていたという話。
日本での話では、柳田國男の「オシラ神の話」に、娘は「タウトゴ」の蚕になったとあるそうです。「トウト」とみるには証拠不十分ですが。


Re^3: 牧と…  馬頭と鳥頭 管理人  2002/09/30 (月) 02:09 No.75

 蚕の神と馬の神が非常に濃密な関係にあるのは何故なのか本当に不思議な話です。お姫さまと馬の婚姻の伝説については、最近アップロードした「神話浪漫館・長野〜望月の駒、茨城〜金色姫」など中国説話の影響も予想できますが、オシラ様と馬頭神は日本独自のものでもあります。
 オシラ様の神様(幣)の形には、馬頭のほかに、烏帽子や鳥頭もあるそうです。群馬県には鳥頭神社なんてのもあって、関係があるかどうかはわかりません。「うぶすな研究室」で「とっとう、ととう」と読む神について調査を開始したところです。
 柳田国男の「オシラ神の話」大急ぎの斜め読みではタトウゴは見つけることができませんでした。いづれ落ち着いて再読です。
 最近「玄松子」さんの近津神社参拝記を拝見し、「うぶすな研究室」で何か書けそうです。


近都牧、神社と「結べず」か 神奈備  2002/09/14 (土) 21:10 No.68

近都牧の振り仮名は「キントマキ」となっています。『馬・船・常民』網野、森対談。
意味は、都に近い牧場のことで、楠葉牧、会賀牧などを指す言葉です。畿内の牧場は川の傍に置かれ、船を上流に曳くために馬や牛を飼っていたと推測されています。
近都はチカツと読めます。
多くのチカツ神社も川傍にあるとしますと、元は牧であった可能性もありえるのかも。
後世には武士がたむろして、城にまで発展していったとしても不思議ではありませんね。鎮守になるとかその鎮守社の名前がチカツになるのには結びつきにくいですね・・・。


Re: 近都牧、 管理人  2002/09/15 (日) 01:06 No.69

 近都牧については未知でしたので、平凡社世界大百科を検索すると「鳥養牧」の項目が出ました。鳥養牧は摂津国の淀川下流にあった近都六牧の一つとかで、「近都牧は諸国から貢上されてきた馬牛を,必要に応じて京につれてくるため一時的に放牧しておく都近辺の牧である」ともあります。「諸国」といふのは主に東国でせうか。
 「都に近い」意味といふのも洒落てますが、やはり「鳥養」が出てきました。鳥養部や鳥取部は放牧とどう関ったのかなど、「結び付く」ものが多く、興味は尽きません。
 網野善彦、森浩一対談集は「関東学」の副題のある書が強く印象に残ってますが、紹介いただいたものはその続編なのですね。調べる時間はかかるかもしれませんが、いよいよ面白くなってきました。
 いつも貴重なお話を有り難うございます。


岸辺の牧、河童 管理人  2002/09/20 (金) 00:03 No.70

 柳田国男の「山島民潭集」には、河童が馬を川に引き入れるといふ伝説から、河童などの水神は牛馬の守り神でもあり、春先の一日間、牛馬を岸辺に遊ばせ、牛馬の一年の災ひを払ふ(無病を祈る)習俗について書かれてあります。良い牛馬は水中から現はれ出てその胤を残したともいひます。近都牧など、岸辺に牧が置かれたのも、良い馬に育てるためとされます。猿も河童の仲間であり、正月の猿廻しなどは牛馬の一年の無病を祈ったものらしいです。柳田翁によれば、水神に牛馬を生贄として供へた名残りではないかといふことです。
 藤原秀郷の6代の子孫で近江国甲賀郡に住んだ藤原高年といふ武士は、九州筑前から淀川岸の牧へ輸送される途中の最上の馬を略奪したことがあるそうです(野口実「伝説の将軍藤原秀郷」)。平安時代の中頃の話です。こんなことが頻繁に起こるようでは、都に近い牧には防衛のための別の武士の軍団が配属されたことでせう。


縁側の話 管理人  2002/08/29 (木) 20:27 No.64

 東海テレビの昼ドラマを数回見ますと、旧家の家の中の、居間に続く土間のシーンが多く見られました。土間のあるところが玄関だと、制作者は思ってゐるらしいのです。花嫁さんまで、土間から草履を履いて嫁いで行きました。
 本当は花嫁さんは、床の間で支度をして、その部屋の南の縁側から降りてお嫁に行ったのです。縁側の下には沓脱石があって、大事なお客様もここから上がりました。お祝だけでなく葬式のときも縁側から出棺します。新盆には縁側の軒下に盆棚を設けて祭りますが、毎年祭るのが古い形といひます。縁側の軒下には、おふだを貼ったり、七夕の竹を立てたり、月見の芒や団子を供へたり、縁側は、日本の家庭生活では一番大事な場所だったのです。


出雲の縁側 神奈備  2002/09/10 (火) 19:51 No.66

速須佐之男の命の八俣大蛇退治の話に須尊「汝等、八潮折の酒を醸み、また垣を作り廻し、その垣に八つの門を作り、門ごとに八つの佐受岐(假广+技)を結び、その佐受岐ごとの避け船を置きて。。」
とありますが、佐受岐は桟敷で、これは各家庭の縁側に相当するのでは、と思っています。
また神を待ちながら織を織る巫女もそのような所にいるようです。

桟敷や縁側は境界とか異界との境界で、嫁に出すとか出棺とかは、そのような捉え方をされていた名残と考えることは出来ませんかね。


縁側を「結ふ」 管理人  2002/09/11 (水) 02:28 No.67

> 八つのサズキを結ひ、その佐受岐ごとに酒船を置き

 民家の縁側は、江戸初期以降のものとする見方があるようで、それ以前は臨時の棚を設置したと思はれますが、古事記の時代まで遡るとは面白い発見です。
 「結ひ」には組み立てるといふ意味もあると辞書にあります。
……枕つく妻屋(つまや)の中に、鳥座(とくら)結ひ、据ゑてぞわが恋ふ。真白斑(ましらふ)の鷹 大伴家持(万葉4154長歌)
 「注連縄を結ふ」のも特別な境界を定めるときです。
 家持の歌に鳥が出てきますが、サザキといふ名の鳥もありますが……?


Re^3: 鳥のアイヌ語 管理人  2002/08/27 (火) 12:14 No.63

http://www.dai3gen.net/index_j.html
HP「日本古代史とアイヌ語」は、枕詞の解釈など、注目すべきものが多いと思ひます。
[46]で最初に紹介いただいたページは、一音一語の解釈になってしまってゐて、疑問に思ったのですが、他は必ずしもそうではありません。


大胡城の近戸大明神の「と」 神奈備  2002/08/26 (月) 16:17 No.61

ちかたの神の改訂追加版拝見いたしました。
管理人さんの読解の AND の方がよさそうですね。
その前の文中の「=」次の「と」と、片仮名と平仮名の混在も原文はともかく、『祀りデータ』へのインプット時の仕業かどうかですが、案外、当城之鎮守ニ近戸大明神 の = はイコールの意味で神社が記し直したのかも。

赤城大明神を勧請する手紙に「既に祭られている神社名」を書くのは少しは不思議ですが、礼儀として記したのかも。並祀して具合の悪い神−天照大神と大和国魂−もありますから・・。


Re: 大胡城の近戸大明神の「と」 管理人  2002/08/27 (火) 11:04 No.62

 大胡城の手紙は、神職への祭事の依頼文ですから、社殿を新築して赤城神を祀るのか、近戸神の建物に併せ祀るのか、どちらかを明確に伝へなければなりません。
 奇妙なのは「神職父子のどちらかお一人にに来ていただきたい」と、祭事の形態ないし規模についての城主の依頼です。大規模な祭事でなく、といふ意味なら、新築ではあり得ない話になります。


多胡碑の羊 神奈備  2002/08/14 (水) 16:14 No.48

神奈備は禎祥と言う名をつけてもらっていまして、『中庸』文中の「国家将起必有禎祥」からとったそうです。Simbol of Lucky の意味とか。「祥」だけでも同じような意味があり、刻む際にはこれを略して「羊」としたとか。
多胡碑の「給羊」とはいろいろな解読の説があるようですが、「羊と言う名の人物に多胡郡を与える」と言うのは、氏を抜かしていることで、通常は成り立たない。また動物の羊を与えるとの解釈も多胡郡で羊を飼っていたとの文献が他になく、我が国にも羊飼や羊養部などがないようにその風習がないと見た方がいいでしょうね。
水野祐『仮屋上遺跡出土紡錘車の「羊」について』には、「三郡内三百戸郡成給羊多胡郡。」は、「三郡内の三百戸を郡と成し給うをよろこびて多胡郡となす」と訓読すべきとの意見が記されています。

そうすると、羊神社も祥神社の略形かもしれませんが残念ながら見あたりません。尻切れトンボの羊頭狗肉の書き込みでした。


Re: 多胡碑の羊 管理人  2002/08/14 (水) 20:43 No.50

 多胡碑の「羊」の一文字は、碑文の中でも目につく一文字で、いろいろな伝説のもととなったものと思ひます。
 「三郡内三百戸郡成給羊多胡郡」の「成給」を「成し給ふ」と読むのは、考へてみれば本当に自然な読み方です。すると「羊」を「祥」の略字と見て、「よろこびて」あるいは「さきはへて」と読むのも自然です。確かにその可能性は高いといへます。
 羊太夫の伝説が、時代をどのくらゐさかのぼれるのかも、よくわかりませんが、伝説では、羊太夫は朝廷への定期的な出仕を義務づけられてゐたふしがあります。こういふのは朝廷に服属してまもない蝦夷であることが多いのではと思ひます。この土地の古代における印象強い伝承が、碑文の誤読に向はせたのかもしれません。
 先日、記念館でもらってきた少し古い時代の羊太夫の物語は、朝廷へ通ったとすべきと思はれる部分を毎朝通ったとするといふ心もとないものでしたが、逆に更に古い漢文で書かれた物語の存在をうかがはせるものでもありました。伝説の意味を考へ直してみたいものです。
 さて「ひつじ」の読みの神社名を検索すると、深谷市の「古櫃神社(こひつじんじゃ)」が表示されました。この神社の氏子で羊をたくさん飼ってゐるMさんを知ってゐたので、ちょっと驚いたのですが、無論この神社名と羊は関係ありません(やや楽屋落ちでした)。


鳥のアイヌ語 大三元 [URL]  2002/08/07 (水) 22:57 No.43

チカツがアイヌ語の鳥に近い、との御文がありました。
アイヌ語の鳥は chikap と chir が主流だと思われます。
チカツと chikap が近いか遠いか、判断は避けておきます。
もし、チカツ神社が疱瘡(天然痘)厄除けの御利益がある、または、大年神を祭っていると面白いと思います。
なぜなら天然痘は鳥が運んでくる
天然痘のことを pa といい、それは「年」の意味もある。
天然痘を運んでくる神を si-kat-or-kamuy といい、これがチカツになっていないか、と思ったものです。なお、この語の直訳は 糞・形・の所・神(糞形のついた神)。
以上知里真志保著『分類アイヌ語辞典・人間編』ほおそおの項参照。


Re: 鳥のアイヌ語 管理人  2002/08/08 (木) 17:05 No.44

 日本の鎮守様の九割は室町時代の創建といはれ(柳田国男)、この時代は特定の病気に関する神さまの御利益の信仰はあまりなかったようです。病気をなほすのは陰陽師などの仕事でした。病死や事故死などは、「早死に」といふ一括りで認識され、早死にした人を供養したり祀ったりすることが現時点の疫病退散につながるといふ気持だったと思はれます。祇園さまや八坂さまなどがこれにあたります。
 日本語の「年」といふ言葉は、穀物の稔りや収穫の意味から来たものといはれ、秋に米が取れれば一つ年も取るといふ考へでした。アイヌ語の「パ」は、繰返すといふ意味から来てゐるように思へます。季節の移り変りを見てゐますと、毎年同じことが繰返され、毎年同じように春がやってくることに、かけがへのない安心感を感じるのは日本人も同じです。両者ははるか古代にどこかでつながってゐたものと思ひます。


Re^2: 鳥のアイヌ語 大三元 [URL]  2002/08/08 (木) 17:49 No.46

大年神、天チカルミヅヒメ、サイノカミ、アイヌ語の pa などを考えた拙文を上げてありますので、お時間が御座いましたら御覧ください。

http://www.dai3gen.net/izumo3.htm


近つ飛鳥と近淡海 神奈備  2002/08/05 (月) 15:59 No.38

> 「ちかた、ちかつ」の神とは、社を鎮祭する場所を川辺から飛び立つ鳥の行方によって卜定したことから来た名前なのではないかと思ふ

興味深い論述です。

『古事記』孝昭(カウセウ)天皇の条
兄(イロエ)天押帯日子命(アメオシタラシヒコノミコト)は、・・・、近淡海国造(チカツアフミノクニノミヤツコ)の祖なり。

『古事記』水歯別命(ミヅハワケノミコト)と曽婆訶理(ソバカリ)の条
かれ、其地(ソコ)を号(ナヅ)けて近(チカ)つ飛鳥(アスカ)と謂(イ)ふ。

遠淡海は浜名湖、遠い飛鳥は大和国の飛鳥のことのようです。飛鳥の拠点は難波宮のようです。淡海も拠点が西なら該当します。
これから考えると「チカツ」は単に「近い」の意かと思っていましたが、飛鳥の冠、淡海の冠としてしか『古事記』には登場してこないこともあり、これは管理人さんの「川辺から飛び立つ鳥の行方」の指摘の中にきちっと水と鳥とが入っていることとドンピシャリだと思います。
この概念に何らかの遠近感の概念が入ったものと考えることは出来ないのでしょうか。


Re: 近つ飛鳥と 管理人  2002/08/06 (火) 02:32 No.40

> > 「ちかた、ちかつ」の神
 これまであまり取り上げられなかったテーマかもしれません。
 東国の遠江(とほつあふみ=浜名湖)は、琵琶湖(淡海)に対して"遠つ"といひ、その結果、"近つ淡海"の語ができ、"近江"の表記となったと辞書などにあると思ひます。しかし"飛鳥"と"近つ飛鳥"は、語の成立のしかたが違ふかもしれません。その意味では「ちかつ」の神との関連も調べてみる必要はあると思ひます。
 万葉集には「遠つ人、遠つ神、遠つ国」といふ言葉はありますが「近つ・・」といふ言葉はありません。「遠つ人、国」は随分と昔の人、黄泉の国といふ意味で、最近亡くなった人を"近つ人"とは言はず、また黄泉国の遠さはいはば絶対的な遠さです。"近つ人"とは"現在の人"の意味になりますから、それなら"現し人"と言ったほうがぴったり来ます。"ちかつ飛鳥"の"ちかつ"とは、近いといふ意味ではないかもしれません。
 「ちかつ神社」は兵庫県や九州地方にもいくつかありますが、その土地のことがよくわからないので、今回は取り上げませんでした。今後の課題になります。
 全国の「ちかつ神社」一覧表を該当ページに追加しておきました。


Re^2: 近つ飛鳥 管理人  2002/08/06 (火) 11:00 No.41

> "ちかつ飛鳥"の"ちかつ"とは、近いといふ意味ではないかもしれません。
 「諸社つれづれ」のページをお読みいただければ、言ひたいことはおわかりと思ひます。
 「ちかつあすか」とは「春日のかすが」と同じ作りの言葉に見えます。
 枕詞の古いものは、空見つ大和、うまさけ三輪、ころもで常陸、さねさし相模、など、五音には足りないものばかりで、「飛ぶ鳥の明日香」はなぜか新しい洗練された五音のスタイルです。「ちかつ」は更に少ない三音ですが「春日の」ももとは音が少なかったかもしれません。「ちかつ」は「飛ぶ鳥の」と似た意味の言葉かもしれない。日本語、特に古語に、米や稲を意味する言葉が山ほどあるのは、日本人が米に深く関ってきた民族だからですが、鳥に関しても、いろいろな古語があったものと想像できます。
 以下は勝手な想像ですが、「ちかつ飛鳥」が使はれなくなって「飛ぶ鳥の飛鳥」が一般的になった後に、難波に残る昔の語の「近つ飛鳥」が思ひ出され、昔の難波から明日香への何かの移動の記憶から、「遠つ飛鳥」の言葉ができたのではないかと。


Re^3: 近つ飛鳥 神奈備  2002/08/07 (水) 12:52 No.42

 飛鳥についての「遠つ飛鳥」、「近つ飛鳥」は両方とも大和国内に求める説などいろいろあるようです。また「飛鳥」そのものも、「安宿」から「ア」+「スカ:須賀、蘇我、など」、「二日」など諸説があり、言語音痴の出る幕はありませんが、

管理人さん> 「ちかた、ちかつ」の神とは、社を鎮祭する場所を川辺から飛び立つ鳥の行方によって卜定したことから来た名前なのではないかと思ふ。

から考えると、「ちかつ」は「茅草(ちかや)の繁茂」する」あたりとすれば、砂地の飛鳥や琵琶湖には茅草が生えていたとしても不思議ではないですね。茅草の中から鳥の群が飛び出す、富士川を思いますね。飛ぶ鳥にちかつく青草話でした。


はじめての書き込み 神奈備  2002/08/02 (金) 15:51 No.35

『諸社つれづれ』を拝読いたしました。鳥越憲三郎先生は関西では人気のある方で、カルチャア教室なんかの講師に現れますと、人がたくさん集まります。ただ氏の最近の書物の著作物紹介に、『神々』『邪馬台国』が記載されていないこともあります。学説を撤回されたとは聞いていませんが、大方には無視されているのかも。

 羊神社と矢田の地名(古墳時代の終りを告げる碑)
 羊神社があり、場所は群馬県安中市中野谷の竹ばかりの森
 羊神社の周辺は、磯部、丹生、鷺宮、貫前神社など物部氏のゆかり地ばかりである。

 興味津々の論述です。
丹後国中郡(京都府峰山町)に矢田神社が鎮座、祭神を伊加賀色許命としています。
丹後国与佐郡(京都府野田川町)には矢田部神社が鎮座、やはり伊香色雄命が祭神です。
また丹後国与佐郡(宮津市)には石部神社が鎮座、祭神は石上乃大神となっています。
しかし丹生の名を持つ神社に物部系の神が祀られている気配はなさそうで、丹生と物部ははどちらかと言えば、住み分けているような感じをもっております。丹生−秦系と物部系とは新羅系と百済系のようにしっくりとはしていなかったのかも。


郷土の古代史のような・・・ 管理人  2002/08/03 (土) 01:52 No.36

 "神奈備"さま、あり難うございます。
 郷土の埼玉県北部地方の古代史のようなものも少しは考へまして、まづ周辺地方の群馬県南部あたりのことから少しばかり始めたところ、貫前神社(富岡市)を祀った物部氏に行き当たったわけです。「神奈備」さんのサイトの物部氏研究も大きなきっかけとなりました。
 ところが古代氏族についての勉強はほとんどしたことがなく、伊香色雄命とはどこかで聞いた名前だと、<崇神天皇の御代に石上神宮を祀った人>などと調べてゐる始末です。
 しかし当地方には古代の文献はほとんどなく、むづかしい問題なのです。「神奈備」さんには今後もお世話になることと思ひます。