熊毛の神

熊毛郡熊毛町

 熊毛郡は古代周防(すはう)国の中心部であるといふ。式内社の熊毛神社は、熊毛町の熊毛神社のほかいくつか候補地があるやうだが、三毛入野(みけいりの)命(熊毛の神)をまつるといふ。三毛入野命は、神武天皇の次兄にあたり、日向国を出て東征の途中、船が周防の海で暴風雨に遭ったとき、身を海中に投じて、船の安全をはかった航海の守護神とされ、また穀物の神ともいふ。

 ○沖辺より潮満ち来らし。(から)の浦に求食(あさ)りする(たづ)、鳴きて騒きぬ  万葉集

 熊毛町の北部の八代には、現在も鶴の飛来地がある。

 ○籾拾ふ鶴のまどゐを乱すまじ                 松野自得



釜戸の関、祝島

熊毛郡上関町

 室津半島の南に浮かぶ長島(上関町)は、竃島ともいひ、古くは海駅が設けられ、釜戸(かまど)の関があった。

 ○朝凪にあまの刈るてふ藻塩草、たくや釜戸の関といふらん    足利義満

 長島の西の祝島に、天平八年に遣新羅国使が立ち寄って詠んだ歌が、万葉集にある。

 ○家人は、帰り早来と、いはひ島(いは)ひ待つらむ。旅行くわれを   万葉集3636

 ○草枕旅行く人をいはひ島。幾代経るまで斎ひ来にけむ      万葉集3637

 祝島には海上守護の神として宮戸八幡宮がまつられてゐる。



周防のみたらし

光市

 むかし室積(光市)の普賢寺で、性空上人が、生身の普賢を拝み奉りたいと祈ったところ、七日目に童子が現はれていふには、「室の遊女長者を拝め」と言った。上人が室に出かけると、遊女長者は上人に酒を勧めて、歌を歌った。

 ○周防のみたらしの沢辺に風の音つれて 

 他の遊女たちが囃した。

 ○ささら浪立やれ

 上人が目を閉ぢると、遊女長者は普賢菩薩となって眉間から光を放ち、かすかな声でお経をつぶやいた。目を開くと、もとの遊女の姿でみたらしの歌を歌ってゐたといふ。三十一文字の歌も伝はる。

 ○周防のむろつみの中なるみたらひに風は吹かねどささら波立つ

 室積の浦は、平安時代の末、鹿ヶ谷事件で鬼界が島へ流罪を言ひ渡された平康頼が、船で護送される途中しけにあひ、仮泊したところである。このとき康頼は、普賢寺の僧をたづねて出家し、性照の名をもらった。

 ○つひにかく背きはてける世の中は、とく捨てざりしことぞ悔しき  平康頼

 康頼は、のち許されて、鬼界が島から京へもどったといふ。



防府

防府市

 防府市には、周防国府があった。一宮の玉祖神社の祭神一座は玉祖命で、玉造連の祖とされる。他の一座は不詳だが、祭には常に二座分の御供物を献るしきたりだといふ。

 防府天満宮は古く松崎天神社といひ、菅公没後最初に建てられた天満宮だといふ。近くの松の山を「くはの山」といひ、浜では塩が焼かれた。

 ○花すすき、まそほの糸を乱すかな、しづが飼ふこのくはの山風  今川了俊

 防府市出身の俳人の句。

 ○雨ふる故郷ははだしであるく                 種田山頭火



仁壁神社

山口市大字宮野神織機

 山口市の仁壁(にかべ)神社は、もと仁戸宮(に へのみや)といった。「にへ」とは新穀の意味で、秋の初穂を神にたてまつったことに由来する名なのであらう。

 ○民安き秋のまもりや稲の宮                  細川輝元

 鎮座地は大字宮野神織機で、地名から察するに養蚕や機織も盛んだったのだらう。



忌の宮

下関市長府宮ノ内

 下関市の忌宮(いみのみや)神社は、仲哀天皇と神功皇后をまつる。ここは九州を平定された仲哀天皇の穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)の跡である。天皇は筑紫の香椎宮(か しひのみや)で崩御され、長府のこの地に埋葬されたといふ。皇后は新羅に出兵され、帰国して天皇の霊をここに鎮めまつったといふ。

 ○遥々とから(韓)ををさめて忌の宮、いみじかるべき大御稜威(おほみいつ)かな  高崎正風



犬鳴山

豊浦郡豊浦町

 景行天皇が豊浦の安須波(あすは)の原をお通りになったとき、犬鳴山の姫菖蒲に魅せられて、()ぬことが出来なかったといふ。往ぬこと無きから犬鳴山(稲城山)の名がついたとされる。

 ○長門なる稲城山の姫あやめ、時ならずして如月(きさらぎ)に咲く

 この地には福徳稲荷神社(豊浦郡豊浦町宇賀)がまつられてゐる。



平家の伝説

下関市 壇ノ浦

 下関の赤間神宮は、壇ノ浦に入水された安徳天皇をまつって創建された神社である。幕末までは阿弥陀寺といふ寺で、ここで足利三代将軍義満が、平家蟹なるものを見て詠んだ歌がある。

 ○過ぎし世のあはれに沈む君が名をとどめ置きぬる門司の関守    足利義満



三年寝太郎

厚狭郡 寝太郎荒神

 厚狭(あさ)郡山陽町あたりに、むかし寝太郎といふ男が住んでゐた。働くことをせず、三年三月のあひだ寝て暮らして、蓄へをすべて食ひつぶしたといふなまけものだった。ところが寝太郎は、厚狭川の中流の柳瀬の堰から水路を引くことを考へ、それを実行して、のちに千町(せんちょう)ヶ原と呼ばれた厚狭盆地の美田地帯を作ってしまったのである。寝太郎は、厚狭駅の南の寝太郎荒神にまつられてゐる。

 ○あさもよし、さ寝てし居れば、三月つき三とせに流る、ゆふ襷かな

 荒神とは、竈の神を意味することも多いが、中国地方では、土地や家の守り神でもあり、農業や路傍の神でもあり、関東の稲荷様に似たものらしい。真言宗の影響で広まったともいふ。



涙松

萩市大屋

 萩の城下を出て山口街道を行く途中に松並木があり、旅人が別れを惜しむ場所なので、涙松と呼ばれた。安政六年、江戸伝馬町の獄へ送られる吉田松陰が、ここを通ったとき、詠んだ歌。

 ○帰らじと思ひさだめし旅なれば、ひとしほ濡るる涙松かな    吉田松陰