野間の長田親子

知多郡美浜町野間

 平治の乱に敗れた源義朝は、東国へ下向の途中、野間に住む臣下の長田忠致の館を宿とした。しかし義朝は湯殿に入ったところを、長田に謀殺された。長田の親子は義朝の首を都の平氏に献上して褒賞を乞うたところ、主君を裏切った者が信用されるはずもなく、壱岐守を与へられただけだった。義朝の遺児、頼朝の挙兵後は、昔を詫びて家来にしてもらったが、そのとき頼朝は「手柄あらば美濃尾張を与へん」と言った。平氏を滅ぼしてのち、頼朝は父の供養のため野間の大御堂寺に七堂伽藍を寄進した。このとき長田親子を捕へてかう言った。「身の終りを与へん」。かうして長田親子は張付けにされて処刑されたといふ。長田親子の辞世の歌といふのがある。

 ○長らへて命ばかりはいきのかみ、みのをはりをば今ぞ給はる    長田親子