羽咋の海 珠洲の海
むかし大己貴命と少彦名命が能登国をめぐり、土地の
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付近には釈迢空師弟の墓所もある。
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○春畠に菜の葉
大伴家持が能登の長浜の浦(七尾南湾)を訪れたときの歌。
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家持と長浜の長者の娘の子孫が小林家だといふ。
七尾湾に浮かぶ能登島の
○とぶさ立て船木きるといふ能登の島、山今日見れば木立繁しも 大伴家持
蝉折の笛
桓武平氏のうち
○白浪の打ち驚かす岩の上に寝いらで松の幾夜経ぬらむ 平時忠
ここへ都落ちの源義経が、
○うきめをば藻塩とともにかきながし悦びとなるすすの岬は 源義経
この笛は鳥羽天皇が唐の国王から贈られたもので、源頼政や高倉天皇を経て義経の手に入り、須須神社に今も伝はる。平時忠の子孫が、能登の豪商
福浦の腰巻地蔵
北前船で賑はった能登の
○能登の福浦の腰巻地蔵は、けさも船出をまたとめた 野口雨情
久江の道閑
寛文六年(1666)能登の
○消えてゆくあとに形あり霜柱 道閑(辞世)
のち、孫右衛門の一味は捕へられ、事件の真相が明らかにされたが、村へは検地による田の没収もなく、村人たちは「久江の道閑さま」と慕ひ尊敬しつづけたといふ。
○おいたはしや道閑さまは七十五村の身代はりに 臼すり唄
白山信仰
白山は養老元年(717) に僧泰澄による開基といはれ、平安時代の末ごろからは修験道の霊場として栄えたが、一向宗や曹洞宗の拡大により衰退した。麓の石川郡鶴来町の
○君が行く越の白山しらねども、ゆきのまにまに跡はたづねん 藤原兼輔
近世以降、諸国の白山社は、養蚕と機織の神としての信仰も集めた。
○誰かもと織りそめつらむ。賀びを加ふる国のきぬのたてぬき 道興
篠原の実盛塚
治承四年(1180)、木曽に挙兵した源義仲は、北陸路を制覇し、越中から京へ進軍しようとしてゐた。平家方の斎藤別当実盛は、老齢の身ではあったが、故郷の越前を守るべく、寿永二年(1183)加賀から越中へ入らうとした。だが、
○無残やな兜の下のきりぎりす 芭蕉
実盛は稲の切り株に足を取られて討たれたともいひ、それ以来実盛の霊は
加賀百万石
金沢は、加賀・能登・越前の三国を領した前田氏の城下町である。町の中央を犀川が流れる。
○母恋し夕山桜、峰の松 泉鏡花
○ふるさとは遠きにありて思ふもの、そしてかなしく歌ふもの…… 室生犀星
金沢市内の兼六園の中に金沢池がある。むかし芋掘藤五郎といふ男が、山で芋を掘るかたはら、ときどき砂金を掘ってゐた。その砂金を池で洗って取り出したことから金沢池の名がついた。藤五郎は、加賀介藤原吉信の末裔といふ。
諸歌
○朝顔や釣瓶とられてもらひ水 千代女
山中温泉は、行基が開いたといはれ、蓮如なども立ち寄ったといふ。
○山中や菊は手折らぬ湯の匂ひ 芭蕉