久江の道閑

鹿島町久江

 寛文六年(1666)能登の久江(くえ)村に検地実施のおふれが出たとき、領主・長連頼の家臣・浦孫右衛門は隠し田を持ってゐた。発覚を恐れた孫右衛門は、百姓たちを扇動して検地中止の請願をさせようとしたが、人徳のある庄屋の道閑を代表に仕立てなければ、中止の請願など通るまいと考へた。煽られた百姓たちは道閑に頼みこみ、道閑はやむなく請願に動いた。しかし逆に騒動の首謀者として捕へられ、磔の刑に処せられた。

 ○消えてゆくあとに形あり霜柱                  道閑(辞世)

 のち、孫右衛門の一味は捕へられ、事件の真相が明らかにされたが、村へは検地による田の没収もなく、村人たちは「久江の道閑さま」と慕ひ尊敬しつづけたといふ。

 ○おいたはしや道閑さまは七十五村の身代はりに          臼すり唄