久江の道閑
鹿島町久江
寛文六年(1666)能登の
○消えてゆくあとに形あり霜柱 道閑(辞世)
のち、孫右衛門の一味は捕へられ、事件の真相が明らかにされたが、村へは検地による田の没収もなく、村人たちは「久江の道閑さま」と慕ひ尊敬しつづけたといふ。
○おいたはしや道閑さまは七十五村の身代はりに 臼すり唄
寛文六年(1666)能登の
○消えてゆくあとに形あり霜柱 道閑(辞世)
のち、孫右衛門の一味は捕へられ、事件の真相が明らかにされたが、村へは検地による田の没収もなく、村人たちは「久江の道閑さま」と慕ひ尊敬しつづけたといふ。
○おいたはしや道閑さまは七十五村の身代はりに 臼すり唄