大伴家持

高岡、新湊、氷見、大門

 大伴家持は、天平十八年(745)から天平勝宝三年(754)までの九年間、越中守として国府(今の高岡市伏木)に赴任し、数多くの歌を残してゐる。国府に近い今の新湊市付近の海を、奈呉(なご)の海といひ、古代から栄えた港があった。

 ○あゆの風いたく吹くらし。奈呉(なご)海人(あま)の釣する小舟、こぎ隠る見ゆ  大伴家持

 新湊市の放生津(ほうしょうつ)八幡宮の宮司家の大伴氏は、家持の子孫であるといふ。家持が在任中、宇佐八幡神を勧請したのがこの八幡宮の始りといはれ、もとは「奈呉八幡宮」と称したが、放生会(殺生を忌んで夏に魚を放つ儀式)が行なはれてから放生津の地名がおこり、社名ともなった。

 射水郡大門町の豪族の真田家を家持が訪れたとき、真田家は清水川の葦附(海苔のやうなもの)を調理してもてなしたといふ。そのときの家持の歌。

 ○雄神川。(くれなゐ)匂ふ。少女(をとめ)らし、葦附(あしつき)採ると、瀬に立たすらし    大伴家持

 家持と真田家の娘の深雪の間に生まれた子は、為信といひ、越中大伴氏の初代となった。また、家持とともに赴任した子、明麻呂が家臣とともに越中に残って大伴氏となり、後、北海道へ移ったともいふ。

 氷見市周辺には、大伴家持ゆかりの物を御神体とする神社も多い。氷見市大浦の「日の宮神社」は、家持の玉と鏡を御神体とする。大浦は往時「耳浦」といったらしい。

 ○久米山の木の間さやかに照らせるは耳浦につく有明の月      伝大伴家持

 高岡市上牧野には南北朝のころ、宗良親王が三年ほど住んだといふ。有磯海とは越中の沖の広い海をいふ。

 ○有磯海(ありそうみ)の浦吹く風もよわれかし、いひしままなる浪の宵かは    宗良親王

 ○今はまた訪ひ来る人も奈呉の海に、しほたれて住むあまと知らなん 宗良親王