義経の財宝

大和市下鶴間 浅間神社

 徳川時代に江戸を中心に浅間信仰が広まり、厚木街道筋にあたる今の大和市地方でも富士講が盛んとなった。大和市下鶴間の浅間神社には、宝永四年の富士山大噴火の際に、火山灰を集めて、富士を型どって築いた塚がある。

 この浅間神社には、「義経の財宝」の伝説がある。

 文治元年(1185)三月、源義経は平家一族を壇ノ浦に破り、平宗盛、清宗らを捕虜として京の都に凱旋した。その後、義経は捕虜を鎌倉へ送るために関東へ向かひ、鎌倉を目前にしたころ、北条時政が捕虜を受取りに来た。しかし捕虜は受け渡されたが、兄頼朝は義経一行の鎌倉入りを許さなかった。再度の許しを乞うて待てども許しは来ず、一行は再び京へ戻るしかなかった。その途中、鶴間の浅間神社で休んだとき、一羽の鶴が鎌倉の方へ飛んで行くのを見て、義経は「あの鶴でさへ鎌倉へ入れるのに……」と嘆き、「自分は二度と鎌倉の地は踏めないだらう」といって、頼朝への土産に持参した財宝のすべてを浅間神社の境内のいづこかに埋め、壁に歌を書いて立ち去ったといふ。

 ○朝日さし夕日かがやく木の下に黄金千両、漆万杯

 全国各地の埋蔵金伝説の地に同じ歌が伝はる。