貫前神社
むかし香取の
貫前神社の裏を流れる丹生川の上流、旧丹生村を詠んだ万葉歌がある。この歌はめっき法を詠んだ歌(水銀に金を溶かして仏像などに塗り、水銀だけ蒸発させる金めっき法)といはれる。
○
羊太夫
○わが恋は、まさかも悲し。草枕多胡の入野の、奥も悲しも 万葉集
(まさか=今現在)
○多胡の嶺に寄せ綱
(多胡山から寄綱を延ばして寄せても、どうして来るものか。動かない。あの子は寄ることも無い)山を綱で引き寄せるといふ発想は、後述の八束脛のやうな巨人伝説をふまへてのものだらうか。
多胡郡ができたときの古い記念碑が、吉井町の
むかし羊太夫は、
佐野山・佐野の渡
多胡碑のある鏑川の下流、烏川との合流地近くの高崎市の
○佐野山に打つや
この地の山名八幡宮は、安元年中(1175〜1177)に、新田氏の祖の新田義範による創建といふ。新田氏からは山名の地名を苗字にした山名氏が出て、南北朝のころは足利氏に従ひ、山名宗全は応仁の乱の西の雄となった。佐野山の北を流れる烏川の渡は「佐野の渡し」といひ、謡曲「鉢の木」の舞台ともなった。
榛名山・伊香保
榛名山の東南の旧
○伊香保ろの
○上野の伊香保のみ湯のわく子なす、若返りつつ帰り来ませ。君 橘千蔭
○さだめなく鳥やゆくらむ。青山の青のさびしさ限りなければ 竹久夢二
赤城の神
○上野の勢多の赤城のからやしろ 大和にいかであとをたれけむ 源実朝
神道集によると、もと赤城の神は上州一宮であったのだが、機を織ってゐる時に、「くだ」が不足し、貫前の神に借りて織りあげたので、織物が上手で財持ちである貫前の神に一宮を譲って、自分は二宮になったのだといふ。
倭文神社
倭文神社の田遊祭は、中世祭祀のおもかげを残す行事といはれ、一月十四日午後六時ごろに始まり、神事の佳境に至ると、神官以下一同は提灯を回し、太鼓に合はせて御神歌を歌ふ。(倭文神社由緒)
○えーとう えーとう えーとう 前田の鷺が御代田にぎろり
ぎろぎろめくのは なんだんぼ 一本植ゑれば 千本になる 唐々芒子の種
赤城山南麓地域には、古い旋律の田植歌が多く伝へられ、「浜辺」や「千鳥」が歌はれる。(群馬県の歴史散歩)
○夕暮れに浜辺を見れば千鳥鳴く、やよ鳴け千鳥、ヤーハノ声くらべ
小新田山
太田市街の北の
○新田山。
○
元弘三年(1333)、新田義貞は
新田郡細谷村で生まれた高山彦九郎は、寛政の三奇人の一人として知られたが、明治維新の先駆としての評価を受け、明治十二年に太田市の高山神社(旧県社)にまつられた。
○われをわれとしろしめすかや
館林藩士に生まれた生田万は、平田篤胤の弟子となって国学を学び、藩政改革の意見書を出したがもとで藩を追はれ、江戸で浪人暮しとなった。天保二年(1831)に帰国を許され、太田で私塾を開くことになった。
○しらとほふをにひた山のもる山の山守りとしも我やなりにき 生田万
館林出身の作家。
○田と鋤かれ畑と打たれてよしきりの住まずなりたる沼ぞかなしき 田山花袋
八木節
○またも出ました三角野郎が、四面四角のやぐらの上で…… (八木節)
正徳のころ越後から新田郡の木崎宿(新田町)へ来た小夜といふ遊女が伝へた新保広大寺くづしといふ曲がこの地方の盆踊唄となり、栃木県足利郡八木宿(足利市福居町)へ広まり、堀込源太といふ馬方が芝居小屋などで早いテンポの曲にして歌ってから、広く大流行したものといふ。歌詞は長い口説調で「国定忠次」他の演目がある。小夜といふ名は漂泊の女性によくある名である。
伊奈良の沼
県の東端の水郷の町、邑楽郡板倉町は、万葉集によまれた
○上つ毛野いならの沼の大ゐ草、よそに見しよは、今こそ益され 万葉集
この沼の名残が、雷電神社の東の雷電沼である。雷電神社は、もとは広大な沼に浮かぶ小島にまつられてゐたといふ。むかし坂上田村麻呂将軍が蝦夷と戦って苦境におちいったとき、雷電社の神の化身といふ「不思議の童子」に救はれた。将軍は、その報賽に、伊豆国板倉山から良材を運び、三年をかけて社殿を造営寄進した。延暦二四年のことで、新築の祝の庭に、どこからか金色の冠を着けた翁が現れ、歌舞ひをしたといふ。
○雷公は、雲の間に乗り遷り、そのままそこに、宮造りせし
江口きち
利根郡の武尊山の南麓の川場村の貧しい家に、江口きちは生まれた。青春を障害者の兄とともに生き、歌を詠み、薄幸の生涯を閉ぢた。
○
昭和十三年暮れ、二十六才で自殺する朝の歌。
○大いなるこの
小桜の内侍
利根郡月夜野町の村主八幡神社の境内に若宮塚がある。
室町時代の中ごろ、この地方の長者の家に如意姫といふ美しい娘があった。姫は、その美貌と歌の才によって都に召され、
○勅なれば石の袋も縫ふべきに、
(帝の求めなら石の袋も縫ひませうが、ならばその前に砂で縒った糸をお与へください)
御子は二才で病死し、若宮塚に葬られたといふ。
添ふが森、添はずが森
上州吾妻郡の
○美しき花に一足ふみ迷ひ、出家の道をかがやきにけり 禰津太江
「かがやく」とは方言で「探す」の意味だといふ。
あはび姫は、旅の荷物を泣く泣く名久田川に沈めて、川の南の鳥美の森で息絶えた。
○半形となるもあはびの片思ひ、未来は深く添ふが森せぬ あはび姫
あはび姫を葬った塚を、
太江はのちに熱退和尚と名告り、七代目の住職として生涯を終へた。
○身を思へば世に名をよごす、人々の迷ひの花を散らしけるらむ 熱退和尚
遺言により、「添ふが森」の対岸に葬られ、里人はこの塚を熱退塚と呼び、森を「添はずが森」と呼んだ。ここに石の祠が立てられ、
御救ひ梅
甘楽町小幡の菅原神社は、御神体が川から引き上げられたので、川上天神ともいふ。
むかし小幡の土地の長者の娘が、継母にうとまれ、川に突き落とされた。娘は水に溺れまいと、必死に川上の神を祈って歌を口ずさんだ。
○川上の神の誓ひもあらなむに、救はせたまへ、この川の主
すると突然、目の前に花を咲かせた梅の枝が見えたので、枝にすがりついた。ふと我にかへってあたりを見ると、菅原神社の社前の梅の枝にしがみついてゐたといふ。
妙義山
「
○美くしくあやに尊し、かむろぎの神のつくれるこのおほみ山 狩野芳崖
碓氷峠
○日な曇り碓氷の坂を越え
○碓氷嶺の南おもてとなりにけり。くだりつつ思ふ春の深さを 北原白秋
江戸時代の記録によると、碓氷峠の昇りくちに数字だけを書いた歌碑があった。「一つ家の碑」とよばれ、武蔵坊弁慶の作だといふ。
○八万三千八三六九三三四四 一八二四五十二四六 百々四億四百
(やまみちはさむくさみししひとつやによごとにしろくももよおくしも)
(山道は 寒く 寂しし 一つ家に 夜毎に 白く 百夜 置く霜)
義経弁慶の主従が奥州へ下るときに、ここで仮泊したときの歌だといふ。別の記録によると少しが文字が異なるが、註記なしで読めるだらう。
○八万三千八三六九三三四七 一八二四五十三二四六 百々四億四百