貫前神社

富岡市(甘楽郡)

 むかし香取の経津主(ふ つ ぬし)命が、諏訪の建御名方(たけみなかた)命と、上信国境の荒船山で戦った。そのとき経津主命の陣地は、安中市鷺宮(磯部温泉の南)にあったといふ。経津主命は「抜鉾(ぬきほこ)の神」の名で磯部氏らによって鷺宮の地にまつられた。今の咲前(さきさき)神社の地である。抜鉾の神は、のちに南へ遷って、貫前(ぬきさき)神社(富岡市一ノ宮)の神となったといふ。貫前神社には経津主神と姫大神(ひめのおほかみ)がまつられてゐる。姫大神は養蚕と機織の神ともいふが不明で、かなり古い神であるらしい。

 貫前神社の裏を流れる丹生川の上流、旧丹生村を詠んだ万葉歌がある。この歌はめっき法を詠んだ歌(水銀に金を溶かして仏像などに塗り、水銀だけ蒸発させる金めっき法)といはれる。

 ○真金(まかね)吹く丹生(にふ)真朱(まそほ)の色に出て、云はなくのみそ。あが恋ふらくは  万葉集



羊太夫

多胡碑  多野郡吉井町

 多野(たの)郡は、古くは多胡(たこ)郡といひ、和銅四年に甘楽(かんら)郡から分割された。

 ○わが恋は、まさかも悲し。草枕多胡の入野の、奥も悲しも     万葉集

  (まさか=今現在)

 ○多胡の嶺に寄せ綱()へて寄すれども、あに来や(しづ)し。その子は寄らに  万葉集

 (多胡山から寄綱を延ばして寄せても、どうして来るものか。動かない。あの子は寄ることも無い)山を綱で引き寄せるといふ発想は、後述の八束脛のやうな巨人伝説をふまへてのものだらうか。

 多胡郡ができたときの古い記念碑が、吉井町の鏑川(かぶらがは)近くに現存し、「多胡碑」と呼ばれる。碑文に書かれた「羊」とは土地の豪族の「(ひつじ)太夫」のことだといふ。

 むかし羊太夫は、八束脛(やつかはぎ)といふ足の長い男を従者を使ひ、この男の力で空を飛び、驚くほどの速さで大和へ通ってゐた。ある日八束脛が昼寝をしてゐるときに、太夫は悪戯に八束脛の脇の下の黒い羽のやうなものを抜いてしまった。そのために大和へ通へなくなった羊太夫は、謀反の疑ひをかけられて、都から差し向けられた軍に滅ぼされたといふ。八束脛は金の蝶と化して月夜野の石尊山まで逃れ、洞窟に隠れ住んだといひ、その遺跡に八束脛神社(利根郡月夜野町後閑)がまつられ、鳥居に「八束脛三社宮」とある。洞窟が三段になってゐるので「三社」といったのだらうか。サンジャには別の意味があるかもしれない。羊太夫は、和銅年間に武蔵国の秩父で銅を発見して富み栄えたともいふ。羊神社は安中市などにある。



佐野山・佐野の渡

高崎市山名町

 多胡碑のある鏑川の下流、烏川との合流地近くの高崎市の山名(やまな)丘陵に、多胡碑とほぼ同時代の「山ノ上碑」と「金井沢碑」があり、「上野三碑」と呼ばれ、古代文化の繁栄を偲ばせる。山名丘陵は古くは佐野山といったといふ。

 ○佐野山に打つや斧音(をのと)の、遠かども、寝もとか、子ろが(おも)に見えつつ  万葉集

 この地の山名八幡宮は、安元年中(1175〜1177)に、新田氏の祖の新田義範による創建といふ。新田氏からは山名の地名を苗字にした山名氏が出て、南北朝のころは足利氏に従ひ、山名宗全は応仁の乱の西の雄となった。佐野山の北を流れる烏川の渡は「佐野の渡し」といひ、謡曲「鉢の木」の舞台ともなった。



榛名山・伊香保

群馬郡榛名町

 榛名山の東南の旧久留馬(くるま)村(榛名町に合併)の車持(くるまもち)神社には、榛名の神とともに、車持公がまつられてゐる。車持氏は豊城入彦(とよきいりひこ)命(上野国造の祖)の子孫とされ、「くるま」から群馬の地名となった。榛名山は万葉時代には伊香保嶺(いかほね)とも呼ばれた。

 ○伊香保ろの(そひ)榛原(はりはら)。わが(きぬ)に着き寄らしもよ。堪へと思へば   万葉集3435

 ○上野の伊香保のみ湯のわく子なす、若返りつつ帰り来ませ。君   橘千蔭

 ○さだめなく鳥やゆくらむ。青山の青のさびしさ限りなければ    竹久夢二



赤城の神

勢多郡宮城村 赤城山

 上毛野君(かみつけのきみ)の一族は、崇神天皇の皇子・豊城入彦命の子孫で、上毛野国の国造となり、東国一帯を治めた。上毛野君により東国鎮護の神として祀られたのが赤城神社とされる。

 ○上野の勢多の赤城のからやしろ 大和にいかであとをたれけむ   源実朝

 神道集によると、もと赤城の神は上州一宮であったのだが、機を織ってゐる時に、「くだ」が不足し、貫前の神に借りて織りあげたので、織物が上手で財持ちである貫前の神に一宮を譲って、自分は二宮になったのだといふ。



倭文神社

伊勢崎市東上之宮町甲

 倭文神社の田遊祭は、中世祭祀のおもかげを残す行事といはれ、一月十四日午後六時ごろに始まり、神事の佳境に至ると、神官以下一同は提灯を回し、太鼓に合はせて御神歌を歌ふ。(倭文神社由緒)

 ○えーとう えーとう えーとう 前田の鷺が御代田にぎろり

  ぎろぎろめくのは なんだんぼ 一本植ゑれば 千本になる 唐々芒子の種

 赤城山南麓地域には、古い旋律の田植歌が多く伝へられ、「浜辺」や「千鳥」が歌はれる。(群馬県の歴史散歩)

 ○夕暮れに浜辺を見れば千鳥鳴く、やよ鳴け千鳥、ヤーハノ声くらべ



小新田山

太田市金山(新田郡)

 太田市街の北の金山(かなやま)は、古くは新田山、小新田山(をにひたやま)といはれた。

 ○新田山。()には着かなな、()に寄そり、(はし)なる子らしあやに(かな)しも 万葉集

 ○白遠(しらとほ)ふ小新田山の()る山の、末枯れせなな。常葉(ときは)にもがも     万葉集

 元弘三年(1333)、新田義貞は生品(いくしな)神社(新田町)の前で挙兵し、鎌倉へ進軍して幕府崩壊に導いた。金山城は文明年間に新田一族の岩松氏の築城といひ、城趾には明治初期に新田義貞をまつる新田神社が創建された。新田町の生品神社は、大己貴(おほなむち)命を主祭神とするが、平将門をもまつってあるとの伝説もあるやうだ。

 新田郡細谷村で生まれた高山彦九郎は、寛政の三奇人の一人として知られたが、明治維新の先駆としての評価を受け、明治十二年に太田市の高山神社(旧県社)にまつられた。

 ○われをわれとしろしめすかや(すめろぎ)の玉の御声のかかる嬉しさ    高山彦九郎

 館林藩士に生まれた生田万は、平田篤胤の弟子となって国学を学び、藩政改革の意見書を出したがもとで藩を追はれ、江戸で浪人暮しとなった。天保二年(1831)に帰国を許され、太田で私塾を開くことになった。

 ○しらとほふをにひた山のもる山の山守りとしも我やなりにき    生田万

 館林出身の作家。

 ○田と鋤かれ畑と打たれてよしきりの住まずなりたる沼ぞかなしき  田山花袋



八木節

新田郡

 ○またも出ました三角野郎が、四面四角のやぐらの上で……    (八木節)

 正徳のころ越後から新田郡の木崎宿(新田町)へ来た小夜といふ遊女が伝へた新保広大寺くづしといふ曲がこの地方の盆踊唄となり、栃木県足利郡八木宿(足利市福居町)へ広まり、堀込源太といふ馬方が芝居小屋などで早いテンポの曲にして歌ってから、広く大流行したものといふ。歌詞は長い口説調で「国定忠次」他の演目がある。小夜といふ名は漂泊の女性によくある名である。



伊奈良の沼

邑楽郡板倉町

 県の東端の水郷の町、邑楽郡板倉町は、万葉集によまれた伊奈良(いなら)の沼があった所といはれる。

 ○上つ毛野いならの沼の大ゐ草、よそに見しよは、今こそ益され    万葉集

 この沼の名残が、雷電神社の東の雷電沼である。雷電神社は、もとは広大な沼に浮かぶ小島にまつられてゐたといふ。むかし坂上田村麻呂将軍が蝦夷と戦って苦境におちいったとき、雷電社の神の化身といふ「不思議の童子」に救はれた。将軍は、その報賽に、伊豆国板倉山から良材を運び、三年をかけて社殿を造営寄進した。延暦二四年のことで、新築の祝の庭に、どこからか金色の冠を着けた翁が現れ、歌舞ひをしたといふ。

 ○雷公は、雲の間に乗り遷り、そのままそこに、宮造りせし



江口きち

武尊(ほたか)

 利根郡の武尊山の南麓の川場村の貧しい家に、江口きちは生まれた。青春を障害者の兄とともに生き、歌を詠み、薄幸の生涯を閉ぢた。

 ○武尊嶺(ほたかね)はわが()れどころ、小さきいのち、いのち終らば眠らむところ 江口きち

 昭和十三年暮れ、二十六才で自殺する朝の歌。

 ○大いなるこの(しづ)けさや、天地(あめつち)の時刻あやまたず、夜は明けにけり   江口きち



小桜の内侍

利根郡月夜野町

 利根郡月夜野町の村主八幡神社の境内に若宮塚がある。

 室町時代の中ごろ、この地方の長者の家に如意姫といふ美しい娘があった。姫は、その美貌と歌の才によって都に召され、小桜(こざくら)内侍(ないし)と呼ばれた。姫は後花園帝の寵愛を一身に受けたが、後宮の女たちの妬みによって都を追はれ、御子(みこ)を宿したまま故郷へ帰った。御子の明賢親王が生まれてまもないころ、都から「石の袋」を題に歌を求めて来た。姫は御子のたどたどしく口にした「いさご」の言葉から、機知に富んだ歌を送った。

 ○勅なれば石の袋も縫ふべきに、(いさご)の糸を縒りて給はれ      如意姫

 (帝の求めなら石の袋も縫ひませうが、ならばその前に砂で縒った糸をお与へください)

 御子は二才で病死し、若宮塚に葬られたといふ。



添ふが森、添はずが森

吾妻郡高山村尻高

 上州吾妻郡の尻高(しったか)村に泉照寺といふお寺があった。この寺は戦国時代に全焼して泉勝寺として再建された。平将門の乱のとき、小野俊明といふ侍は、あはび姫との恋に迷ひ、戦に間に合はなかったことから、そのことを大いに恥ぢて、出家して泉照寺に入り、禰津(ねづ)太江と名告った。まもなく太江を恋ひ慕って、あはび姫が寺を訪れたが、出家の身であることを示す歌を渡すだけで、誰にも逢ふことをしなかった。

 ○美しき花に一足ふみ迷ひ、出家の道をかがやきにけり      禰津太江

 「かがやく」とは方言で「探す」の意味だといふ。

 あはび姫は、旅の荷物を泣く泣く名久田川に沈めて、川の南の鳥美の森で息絶えた。

 ○半形となるもあはびの片思ひ、未来は深く添ふが森せぬ     あはび姫

 あはび姫を葬った塚を、鳥美(とみ)塚といひ、この森は「添ふが森」と呼ばれるやうになった。

 太江はのちに熱退和尚と名告り、七代目の住職として生涯を終へた。

 ○身を思へば世に名をよごす、人々の迷ひの花を散らしけるらむ  熱退和尚

 遺言により、「添ふが森」の対岸に葬られ、里人はこの塚を熱退塚と呼び、森を「添はずが森」と呼んだ。ここに石の祠が立てられ、不添森(そはずがもり)神社といふ。里人は、恋の成就には「添ふが森」に祈り、縁切りの為には「添はずが森」に祈ったといふ。



御救ひ梅

甘楽町小幡 菅原神社

 甘楽町小幡の菅原神社は、御神体が川から引き上げられたので、川上天神ともいふ。

 むかし小幡の土地の長者の娘が、継母にうとまれ、川に突き落とされた。娘は水に溺れまいと、必死に川上の神を祈って歌を口ずさんだ。

 ○川上の神の誓ひもあらなむに、救はせたまへ、この川の主

 すると突然、目の前に花を咲かせた梅の枝が見えたので、枝にすがりついた。ふと我にかへってあたりを見ると、菅原神社の社前の梅の枝にしがみついてゐたといふ。



妙義山

 「波己曽(はこそ)の大神」ともいはれた妙義神社の背後の妙義山は、奇岩と怪石の多い景勝地でもある。画家の狩野芳崖が、明治二十年三月に妙義山、中ノ嶽の景色を詠んだ歌。

 ○美くしくあやに尊し、かむろぎの神のつくれるこのおほみ山   狩野芳崖



碓氷峠

 ○日な曇り碓氷の坂を越え(しだ)に、(いも)が恋しく、忘らえぬかも    万葉集

 ○碓氷嶺の南おもてとなりにけり。くだりつつ思ふ春の深さを   北原白秋

 江戸時代の記録によると、碓氷峠の昇りくちに数字だけを書いた歌碑があった。「一つ家の碑」とよばれ、武蔵坊弁慶の作だといふ。

 ○八万三千八三六九三三四四  一八二四五十二四六 百々四億四百

 (やまみちはさむくさみししひとつやによごとにしろくももよおくしも)

 (山道は  寒く 寂しし 一つ家に 夜毎に 白く 百夜 置く霜)

 義経弁慶の主従が奥州へ下るときに、ここで仮泊したときの歌だといふ。別の記録によると少しが文字が異なるが、註記なしで読めるだらう。

 ○八万三千八三六九三三四七  一八二四五十三二四六 百々四億四百