シャクシャイン

日高支庁静内郡

 アイヌと和人の交易は、古くは対等の関係でなされたものと思はれる。しかし室町以降、ちょうど欧州が大航海時代に入ったころから、和人側は不平等な交換を強要するやうになって行った。和人はアイヌの漁場へ侵入した上に、アイヌを労働力とする漁場経営も進められた。一方アイヌ自身は、民族としての統一国家は持たず、河川流域ごとに狩漁を生業に集落を作って暮らし、集落ごとに和人と交易をしてゐたつもりであった。

 江戸時代に入り、日高地方の染退川に砂金が発見されると、松前藩は大規模な採取を開始した。派手な街ができ、商人たちがなだれこんで、アイヌの物産への収奪も度を極めて行った。ここへ来て日高地方のアイヌにとっては、民族存亡の危機を迎へてゐたといへる。複雑な商関係によりアイヌどうしの戦ひも少なくなかったが、寛文九年(1669)、この地方のアイヌの巨酋、シャクシャインは、二千余のアイヌを率ゐて松前藩に戦ひを挑んだ。しかし近代兵器の前に敗れ、松前藩は遠く襟裳岬の果てまで一味を追撃して北の海を血で染めたといふ。アイヌの最後で最大の反乱といはれる。静内郡静内町真歌山に歌碑がある。チャシとは自然の地形を利用したアイヌの砦のこと。

 ○大きチャシ蝦夷のいくさのをたけびの歴史をここに空は素蒼し  小田観蛍