神威岬

積丹半島

 ○忍路(おしょろ)、高島、及びもないが、せめて歌棄(うたすつ)磯谷(いそや)まで   江差追分

 船で日本海を北上すると、積丹半島の先に忍路、高島(現小樽市)がある。むかしはこの半島から先は、和人の女は行くことができなかったといふ。だからせめて半島の手前の歌棄、磯谷まで一緒に居たいと、歌に詠まれた。

 むかし積丹半島には、源義経が、弁慶ら数名の家来とともに奥州から落ち延びて来たともいふ。義経はアイヌの村で、狩りや畑作の技術を教へ、村人からも尊敬された。三年を過ごすうちに村長の娘のシャレンカと夫婦の契りもした。だが武士の生れの義経は、平和な暮しに満足できなかったやうで、家来らとともに蒙古へ向けて船出して行ったのである。別れを嘆き悲しむシャレンカは、半島の先の神威岬から海へ身を投げた。「和人(シャモ)の女にだけは義経を渡したくない」といふシャレンカの恨みのため、この岬から北へは、和人の女は通れなかったのだといふ。